一億総無責任体制

・一億総活躍社会を目指すとかいう言葉が飛び交う昨今ですが、威勢の良い言葉になぜかしり込みしてしまうのは私だけでしょうか。大衆をあおるスローガンとしては結構でしょうが、なかなか実態の伴わないのは残念で仕方がありません。

この言葉を聞きながら、昨今マスコミを賑わす都庁を巡る一連の出来事にも甚だ心痛むものを覚えます。結局いつ、だれが意思決定をし、事業を進めたのか皆目見当がつかないというのには、あきれてものが言えません。私はまさに「一億総無責任体制ここに極まれり」と言いたいのです。

・全員で参加しようというのは、形は良いのですがそれは責任の所在をあいまいにしてしまう傾向が強いようです。関わった一人一人は善意の塊で、一生懸命ことに当たってくれたのだと思うのですが、結果が全く伴っていない、いやそれどころか当初目指すものとは反対の方向に進んでいるということなったら、それは悲劇としか言いようがありません。

・都庁の問題はこれからどの方向に向かって進んでいくの%e7%a9%ba%e6%b0%97%e3%81%a8%e8%8d%92%e9%87%8eかわかりませんが、これはひとり都庁だけの問題ではない筈です。あちらこちらの組織でも、明らかに当初路線から逸脱しているというにもかかわらず、遡ってその原因や責任を追及するということがほとんど行われていないのは我が国の国民性がなせる業なのでしょうか。

・これは日本国民をむしばんでいる深刻な病気なのかもしれません。当事者の責任云々をしないで、その場の「空気」がそうさせたという日本独特の理解が働くのかもしれません。もう一度山本七平氏の「空気の研究」を読み返して、しっかりと反省をしなければいけない時かも知れません。

・第二次世界大戦の戦後処理においても、我が国とドイツではその対応が大きく違っていることを感じます。経済的にまだ貧しかった時代から多額の賠償金を支払い、相手国に対して謝罪の意を表してきたのは同じだと思います。にもかかわらず、近隣諸国から評価が大きく違っているのには何があるのでしょうか。厳密なことを申し上げられる者ではありませんが、両国の歴代指導者たちの姿勢の違いが大きく影響していることは確かなようです。ヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」に代表されるように、過去に対する厳しい反省の目をもって自国を見つめているドイツに対して、我が国では「靖国問題」に典型的に見られるように、政府首脳の対応は近隣諸国から決して好感をもって受け止められることはありませんでした。責任を取る姿勢の見せ方の違いが大きいのかもしれません。

・何かにつけてトップの責任が重いのは言うまでもありませんが、それを見のがしてなすがままにさせてしまう周囲の責任も問われなければならないのでしょう。内部問題としてではなく、周囲の視点から、そしてもっと大きな高い視点から自己を見つめる見方を学ばなければならないのだと感じます。無責任体制からの脱却が求められる昨今です。

(S・M)

カテゴリー: 未分類 |