『主の愛にとどまる』
はじめに
本日は先週に引き続き、主イエスの愛にとどまる幸いについてみます。
Ⅰ.私たちは主の枝とされた
主は、ご自身と教会との関係をぶどうの木とその枝との関係にたとえて語られました。枝がぶどうの木につながっていてこそ、豊かに実を結ぶことができるように、教会も、そして私たち一人ひとりも主イエスにとどまっていることで、実を結び、救いにあずかることができるのです。
私たちは、人間的な能力や知恵によってではなく、主の恵みによって主に連なる枝とされました。主にとどまり続ける時、枝が豊かな実を結ぶように、主は私たちに実を結ばせてくださいます。私たちと共に居られる主イエスを信じて、歩み続けましょう。
Ⅱ.主のみ言葉がとどまる
主は「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」と語られました。そして、「多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」とも語られます(ヨハネ15:7)。
これは、私たちのどんな欲望でも神がかなえて下さるということではありません。父なる神の栄光が現わされるために、神のみ心を知ったクリスチャンたちが、神のみ心を願い求め、神がそれに応えてくださるということです。主イエスとその父なる神を心から信頼し、神が必ず私たちに最も良いもの、本当に必要なものを与えて下さると信じて、主に祈りと願いを捧げましょう(ピリピ4:6-7)。
Ⅲ.主の愛にとどまる
主イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」と語っています。これは、私たちが主にとどまって豊かな実を結んでいくための根本を教えています。主にとどまること、互いに愛し合うという戒めに生きることの根源は、神に愛されていることを知ることから始まるからです。
御子イエスは父なる神に愛され、御子はその父なる神を愛し、神の戒めを守り行っています。主イエスは、その父なる神の愛をもって、教会を、私たちを愛しておられるからです。神の愛は、御子イエスの十字架に現わされました。まだ罪人であった私たちに、神を信頼して生きるようにと、神がご自身の愛を示してくださいました。神こそ信頼すべき方であり、とどまり続ける唯一の方であることを覚えましょう(申命記7:9)。
おわりに
私たちは、神の一方的な愛によって、「ぶどうの木」の「枝」とされました。主という「木」にとどまり続ける時、「枝」である私たちは実を結びます。そして、そのために私たち一人一人は神に選ばれたことを覚え(ヨハネ15:16)、主に信頼して歩み続けましょう。

