『キリストにとどまる』
はじめに
本日は、ぶどうの木とその枝のたとえから、主イエスと教会の関係についてみてまいります。
Ⅰ.ぶどうの木と枝のたとえ
主イエスは、ご自身と私たち教会との関係をぶどうの木とその枝でたとえています。どうの木にとどまっている枝が実を結ぶように、私たちが主イエスというぶどうの木にとどまっているなら、豊かに実を結ぶ者とされるのです。
枝と枝とは、それぞれが主イエスというぶどうの木にとどまっていることによってつながっているのです。同じように、教会における私たちの交わりの中心にはいつも主イエスがおられるのです。それであってこそ、枝である私たちは豊かな実を結ぶことができるのです。私たちは、それぞれが主によってつなげられた一人一人であり、主にあって実を結ぶ者とされていることを覚えましょう。
Ⅱ.農夫にたとえられている父なる神
主イエスのたとえは、主イエスがぶどうの木であるということと同時に、父なる神がこのぶどうの木の手入れをする農夫であることもたとえています。農夫は、実を結ばない枝を取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをするのです(ヨハネ15:2)。
これは、主イエスから離れないようにとの励ましであると同時に、主につながっているなら、神はより豊かな実を結ばせてくださることを示しています。主はその人でなければ結ぶことのできない実があることを教えています。だれでも、必ず主にあって実を結ぶのですから、主に信頼して歩みましょう。
Ⅲ.主イエスにとどまりなさい
聖書は、私たちが自分の力で実を結ぶ枝となるのではく、主イエスにとどまってさえいれば、主のみ言葉によってきよくされ、豊かに実を結ぶようにして下さっていることを教えています(ヨハネ15:4)。
主なる神は、常にご自身のほうから私たちの所に来てくださるお方です。私たちがまだ神に敵対しているときから、御子イエスの十字架の贖いによって神との和解を用意してくださっていたのです(ローマ5:10)。農夫である父なる神が。私たちをすでに主イエスというぶどうの木の枝として下さっているのですから、その恵みから離れず、主イエスにとどまり続けて、神の救いと幸いの中を歩み続けようではありませんか。
おわりに
父なる神は、御子イエスの十字架の贖いによって、私たちをすでに主イエスというぶどうの木の枝として下さいました。そして、全てのクリスチャンに居られる聖霊は、私たちが主イエスにとどまり続けるように導き励ましておられます。主イエスにとどまり続け、豊かな実を実らせて頂きましょう。

