『キリストを待つ備え』
はじめに
主イエスのたとえ話から、目を覚まして主を待ち望んで歩む幸いをみます。
Ⅰ.主イエスは再び帰ってこられる
主イエスは、ここまでに世の終わり、すなわち再臨について語って来ました。その中心は、神の御子イエスが、栄光と力をもってもう一度来られるということ。それによって、神の支配、神の国が実現するということです。その日を覚えて備えるべきことを教えるために、主はともしびを持って花婿を迎えに出る十人の娘のたとえを語られました。
神の御子イエスの誕生と救いの御業は、旧約聖書で預言されていました。主は、全ての人の救いのために十字架による贖いの御業を成し遂げてくださいました(ルカ22:37)。その主の誕生の預言以上に、主の再臨のことが約束されています。私たちは、再び来られる主イエスを待ち望みつつ歩み続けましょう。
Ⅱ.「油」を備える
十人の娘たちは、花婿が来るのが遅くなったので、みな眠くなり寝入ってしまいます。しかし、花婿が来た時に「ともしび」のための予備の「油」を備えていた「賢い娘たち」か花婿を迎えました。
この予備の「油」とは、眠り込んでも私たちをクリスチャンとして、やがて来られる主を喜び迎える者として生かしてくれるものと言えます。究極的には、主イエスによる罪の赦しの恵みのことです。主の十字架による罪の赦しの恵みを知り、それを確信することです。私たちが罪赦されて、義なる神の子とされ、永遠の命を頂いたのは、御子イエスの十字架の贖いにのみよることです。これこそが、予備の油です。主の十字架による救いの御業をおぼえ、神に感謝し、御名を崇めてまいりましょう。
Ⅲ.真実に目を覚ます
主イエスは、このたとえを「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25:13)という言葉で結んでいます。「賢い娘たち」が「愚かな娘たち」に油を分けてあげることができなかったのは、この「油」は人に分けてあげることができるようなものではないからです(マタイ25:9)。各々が、主と向き合って神の前に信仰を言い表して行くべきものだからです。それは、自分のどのような罪や弱さがあっても、主の十字架による罪の赦しの恵みと救いは確実なものであるということを信じ、受け入れることです。それが目を覚ましているということです。
主がいつ帰ってこられるかは、だれにもわかりません。だからこそ、「目を覚まして」いつ主が来られてもいいように、主の十字架の救いを信じ受け入れましょう。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。
おわりに
主イエスは、この世の終わりに再び帰ってこられます。その日、その時はだれも知らないのですから、私たちは「目を覚まして」、主が成し遂げてくださった十字架の救いのみわざを覚え、また神の民とされたことを感謝しつつ、主を待ち望んで行きましょう。

