『神の眼差しの中で』
はじめに
本日は、私たちは神を見あげて生きる幸いに生かされていることをみてまいります。
Ⅰ.神の恵みへの応答
主イエスは、群衆と弟子たちに、律法学者たちやパリサイ人たちが教える神の言葉や律法は守り行うべきと教えました。しかし、彼らの行いをまねてはいけないとも教えています。それは、彼らの行いが、「すべて人に見せるためのもの」だったからです(マタイ23:1-5)。
律法学者たちやパリサイ人たちは、モーセの教えを解き明かし、自分たちはその教えに忠実に従って行動していると思っていました。しかし、彼らの行いは神に対してではなく、人からの賞賛や高評価を得ることを目的としていたのです。私たちのみことばに対する行いは、人ではなく、神の恵みに対する応答としてのものです。キリストに仕える者は、神に喜ばれ、人々にも認められることを覚えましょう(ローマ14:18)。
Ⅱ.神に仕える幸い
律法やみことばは、本来人々に自由を与え、いのちを与えて喜びに満たすものです。律法学者たちやパリサイ人たちは、いつの間にかそれらが教えている本質から離れてしまい、人からの評価だけを求めていたのです。その結果、「重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せる」ことになってしまっていたのです(マタイ23:4)。それ故に、主は人々に高く評価されることではなく、「皆に仕える者になりなさい」(マタイ23:11)と教え、律法の本質を示されたのです。
全ての人は神の前に罪ある者で、神の救いに招かれるべき者ではありませんでした。しかし、罪人の赦しと救いのために、父なる神は御子イエスをこの世に遣わし、御子の十字架の贖いによって、救いの道をもうけてくださいました。神が与えてくださる救いは、神の一方的な愛と恵みによることです(エペソ2:5、8)。父なる神の御心は、すべての人が救われて、真理を知るようになることだからです(Ⅰテモテ2:4)。私たちを救ってくださった父なる神と御子イエスの御名をほめたたえましょう。
Ⅲ.神の私たちへの眼差し
律法学者たちやパリサイ人たちのように「人に見せるため」の信仰であるなら、それはすでに、人から報いを受けることになります。しかし、神に見て頂くなら、神からの報いを受けると主イエスは約束してくださいました(マタイ6章等)。しかし、私たちより先に、神が私たちを見てくださっています。
父なる神の私たちを見る眼差しは、御子イエスの十字架に示されています。神は、私たちの罪の赦しと永遠のいのちを与えるために、ひとり子イエスを世に遣わしてくださいました(ヨハネ3:16)。この救い主を見つめて歩むとき、「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに」生かされ続けることを覚えて、主の御名を崇めましょう。
おわりに
父なる神は、私たちひとりひとりを見てくださっています。この神を見つめて生きる時、私たちは神の愛とみことばの真実に生きる幸いに生かされていることを深く知るのです。そして、自らは神の前にヘリくだる者でしかないということを知り、神の御名をほめたたえ続けるものとされたことを感謝するのです。

