『祝宴の招きのたとえから』
はじめに
本日は、人はだれでも神の救いに招かれていて、それを受ける恵みが与えられていることをみます。
Ⅰ.神の招き
主イエスは、天の御国を王子の結婚披露宴を催した王にたとえて語っています。準備が整ったので、王は先に招待した人々を招きました。しかし、招かれた人たちは、それぞれ理由をつけて断りました。それで、王はしもべたちに、大通りに行って出会った人をみな披露宴に招くようにと命じました。
このたとえにおいて、祝宴を催した王は神で、招かれた人々はユダヤ人であり、すべての人を示しています。(ローマ11章)。「今は恵みの時、今は救いの日です」。今のこの時、神の救いの招きを聞いたならば、救い主イエスを信じ、心の内に迎えようではありませんか。
Ⅱ.主イエスを信じる者はだれでも救われる
王のしもべたちは通りに出て行き、「良い人でも悪い人でも」出会った人をみな集めました。王が披露宴のために、どんな人でも招いたように、神はどんな罪人でも、神の救いに招いてくださっています。
全ての人は神の前に罪ある者で、神の救いに招かれるべき者ではありませんでした。しかし、罪人の赦しと救いのために、父なる神は御子イエスをこの世に遣わし、御子の十字架の贖いによって、救いの道をもうけてくださいました。神が与えてくださる救いは、神の一方的な愛と恵みによることです(エペソ2:5、8)。父なる神の御心は、すべての人が救われて、真理を知るようになることだからです(Ⅰテモテ2:4)。私たちを救ってくださった父なる神と御子イエスの御名をほめたたえましょう。
Ⅲ.神の救いの招きに応える
王のしもべたちが通りに出て行って招いた人々の中に、婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は、王になぜ婚礼の礼服を着ないのかと問われましたが答えませんでした。それで、外の暗闇に放り出されてしまいました。
当時、祝宴のための礼服は、招いた者が用意するという習慣がありました。招待された者が「礼服を着る」ことは、祝宴の主催者に敬意を示すという意味も当然含まれていることです。このたとえ話においては、全く相応しくない者が祝宴に招かれたのですから、喜んで招きに応えて出席し、共に祝うべきことを教えているのです。神はすべての人々に、神の救いの招きに応え、主イエスによる十字架の救いという「礼服」を着て、神の救いに預かったことを感謝し、共に神と喜ぶことを願っておられるのです。主の招きに応えましょう。
おわりに
私たちは皆、神の救い(招き)に招かれる者ではありませんでした。しかし、御子イエスの十字架の贖いという「礼服」を着せて頂いたことにより、神の祝宴である救いに入れられました。主の救いの招きに応え、神にある喜びと命に生きましょう。

