『主が共におられるので』
はじめに
本日は、いかなる状況においても、主が共におられることの幸いをみてまいります。
Ⅰ.聖徒たちを通して与えられる神の恵み
ヨセフは、兄たちの妬み悪意によって、無理やり他国に奴隷として売られてしまいます(創世記37:36)。しかし、奴隷として買われた家で、「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり」、その主人の家と全財産の管理を任されます。さらに、神はヨセフを通して主人の家を祝福されます(創世記39:1-5)。
神は奴隷のヨセフを通して、主人の家全体に祝福を与えられました。神は、神を畏れる者を通して、その人だけではなく、周囲の人々にも祝福を与えられるのです(創世記12:3)。今も、神は御子イエスの十字架の贖いによって、クリスチャンを「地の塩」、「世の光」として、周囲の人々をも祝福してくださることを覚えましょう(マタイ10:42)。聖徒は、神の恵みを伝える者として遣わされているのです。
Ⅱ.畏れをもって神に仕える
ヨセフは、今ある自分の境遇に対して、恨みや嘆き、つぶやきではなく、神が共におられることを信じて、自分にできる精いっぱいのこと、主人に仕えたのです(ピリピ2:14)。その忠実さは、主人の妻の誘惑に負けず、冤罪で監獄に投げ込まれるに至るほどのものでした(創世記39:7-20)。
ヨセフは、誘惑に対して「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」(創世記39:9)と答えます。彼は、どのような時にも、共におられる神を畏れ、神の前に歩んでいたのです。いかなる状況においても神を信じ、神の御前で真実をもって応えて生きる幸いを覚えましょう(ピリピ4:12)。主は全てのことをご存じなのですから。
Ⅲ.あらゆる状況の中に主は共におられる
ヨセフはさらに、無実の罪で投獄されて囚人となります。しかし、聖書は、彼の状況がさらに悪くなるほどそのすぐ後に、「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施した」と語ります(創世記39:3、21)。主が与える恵みとは、彼の苦しく困難な状況を直ちに取り除くことではありませんでした。むしろ、奴隷の時も、囚人となったときにも、困難な状況の中でこそヨセフは、主に導かれ、置かれた所で物事を治めて行く賜物を磨かれていました。主は将来の働きのために、ヨセフを訓練し整えておられたのです。
現代の私たちは、インマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ばれる主イエスが共にいて下さるまさにこの時代に置かれています。主イエスの十字架の死と復活は、私たちの罪の赦しと永遠の命の約束のしるしです。復活の主は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束されていることを覚えましょう。主が共にいて下さることを覚えて、主と共に御国を目指して歩み続けましょう。
結 び
ヨセフは、いかなる状況の中でも主が共におられたので、何をしても主がそれを成功させてくださいました。今日の私たちは、主イエスが共にいて下さるがゆえに、ヨセフと同じようにあらゆる境遇の中に主の恵みに生かされていることを覚えましょう(ピリピ4:12)。