『ゲツセマネの祈り』
はじめに
本日は、主のゲツセマネの祈りから、主に信頼する幸いをみてまいります。
Ⅰ.主の十字架の苦しみは私たちのため
主イエスは、十字架の苦しみと死を目前にして、三人の弟子を連れてゲツセマネという所で祈られました。主は、深く恐れもだえ始められ、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14:34)と語りました。
主が言われた「悲しみ」とは、私たちの罪のことです。私たちは、罪のために神から断絶され、滅ぼされるべき者でした。しかし、主はそのような私たちに代わって、罪のさばきを受け、神に見捨てられるという苦しみを受けて下さいました。それが主の十字架です。父なる神の愛は、私たちの救いのために、御子をも惜しまずに十字架にかけられたことに表されています。神に愛されていること、主の十字架の贖いによって救いを頂いたことを深く感謝しましょう。
Ⅱ.神に全信頼を置く
主は、「アバ、父よ」と父なる神に語りかけ、最後は「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました(マルコ14:36)。この祈りから、苦しみの極まりの中でも、主イエスの父なる神に対する全き信頼を知ることができます。
私たちは、主に試みられるとき、真実に神と出会うことがあります。詩篇の著者は、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語っています。信仰は、困難の中でこそ成長するのです。苦難の中でこそ、父なる神に全信頼を置く信仰に立たせていただきましょう。
Ⅲ.ゲツセマネの祈りに支えられて
主と一緒に祈るはずの三人の弟子たちは、主と心を合わせて祈っていることができずに眠り込んでしまいます。主に、「目をさまして、祈り続けなさい」と言われることが三度もありました(マルコ14:41)。弟子たちの祈りを失って眠ってしまう姿は、私たちの姿でもあります。
主は、弟子たちの弱さと挫折の現実のただ中で、「悲しみのあまり死ぬほど」の苦しみを背負って下さり、その中でなお父なる神に深く信頼して、その御心が成るようにと祈り続けて下さいました。眠り込んで祈りを失いそうになってしまった弟子たちは、主のゲツセマネの祈りに示された神の御手によって、後にキリストの福音を大胆に宣べ伝える証し人とされました。私たちも、弟子たちのように、主のゲツセマネの祈りに支えられていることを覚えて、目をさまして「天にまします我らの父よ」と祈り続けようではありませんか。
結 び
主イエスのゲツセマネの祈りは、私たちの罪を救うためのものであり、また、主の父なる神への大きな信頼を置くことの幸いを私たちに示しています。今も、私たちのために執り成し続けてくださっている主を見上げて歩み続けましょう。