主の恵みを手放すな
Ⅰ.ダビデは、主が王として選ばれた者である。
ダビデ王の子アブシャロムは、王に対して反乱を起こしました。それは単に彼の高慢なうぬぼれからのみ出たものではなく、彼自身や民の政治的な不満もあってのことでした。アブシャロムは、異母兄弟であるアムノンの事件(Ⅱサムエル13:1)以来、王に対する不信感を募らせていったのです。そこで彼は、イスラエルの王となるために四年という年月をかけて軍備を整え、民の心を掴むという計画を立てたのです。イスラエルの王は、主によって選ばれた者であり、人間の知恵や力などによって選ばれるのではありません。ですから、アブシャロムが自分の手で王になろうとしていたことは、分を越えたことであり、主の御旨に逆らうことです。本来、彼が成すべき事は、主が立てられた王に民の心を向けさせ、王を立てた背後におられる主に信頼するよう民を導くことでした。しかし、アブシャロムはその反対に、自分が王となるために民の心を自分に向けさせました。聖書は彼のそのような行為を、「心を盗んだ」(Ⅱサムエル15:6)と言っています。アブシャロムは、王子として、主が立てた秩序に従い、王を助け、王のもとに意見や問題を持って行き、王の決断に従うべきだったのです。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)
Ⅱ.十戒の戒め「盗んではならない」
「イスラエルの人の心を盗んだ」という言葉について、十戒の第八戒に「盗んではならない」(出エジプト20:15)とあります。十戒は、もともと神の救いの宣言(奴隷からの解放宣言)の下に与えられました(出エジプト20:2)。神の解放宣言は、「あなたがたは私のもの」という神の所有宣言でもあります。人間は本来、主のものです。神によって造られた最初の人の心を誘惑によって盗み、罪の奴隷状態に陥るようにしたのはサタンでした(創世記3章)。それによって、人間は神ならぬものの所有となったのです。アブシャロムのように、人を主や主が立てた王に向かわせるのではなく、自分に心を向けさせようとした行為の背後にはサタンと同じ思いがあったことが分かります。サタンは常に、私たちの思いを主以外のものにそらそうと、様々な事柄を通して働きかけます。使徒の働きの中で、アナニヤとサッピラの事件が記されていますが、彼らは「サタンに心を奪われ」た結果、聖霊を欺いて、地所の代金のことで罪を犯してしまったのでした(使徒5章)。
Ⅲ.心をいつも主に向けよ
イスラエルの民の心は、神と神が立てた王にではなく、アブシャロムに向いてしまったのです。民は、アブシャロムはダビデ王よりも自分たちをよく理解してくれる、自分たちの願いを聞いてくれて、力強く導いてくれると思ったでことでしょう。しかし民は知らない間に心を盗まれていたのです。それによって、イスラエルの国が二分するという事態に発展してゆきました。国が内部で分裂したら、その国は立ち行かなくなります(マルコ3:24)。私たちの心を盗んで行くものは多くあります。この世の惑わしや誘惑もそうです。忙しさに我を忘れてしまうこともあるでしょう。私たちは常に主のものであることを忘れてはならないし、私たちに与えられた主の恵みを決して奪われてはなりません。私たちは主のものであり、心も思いも、主イエスの中になければならないのです。主は十字架の贖いによって私たちを買い戻してくださり、私たちは罪から解放され自由にされたのです。信仰によって義と認められたものの立場は自由で、何にも束縛されることはありません。主に与えられた自由を盗む者によって奪われ、もう一度奴隷状態に戻ってしまうようなことがあってはならないのです(ガラテヤ5:1)。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

