死にがい

かつて仲間と「生きがい」についてあれこれ話し合ったことがあります。人それぞれ自分の全生涯をかけて生きていけるような生きがいを求めて懸命に日々努力しているのですが、なかなか真に充実した日々を過ごせるような生きがいというものに行き当たらないなどと話をし合っていました。そのような時、「生きがい」があるなら「死にがい」というものもあるのではという話になりましたが、何か言葉遊びのようになり、十分煮詰まらないままに終わってしまったことを思い出します。
自分が生きがいを感じるのは、自分のやりたいことができる職業についているとか、趣味の世界に浸っているとか、あるいは家族に囲まれて幸せな日々を過ごしているとか、いずれにしても生きていることに充実感を覚える時なのですが、それは自分が生きている間だけ満足ということになりがちで、余りにも自己中心の価値観が支配的で、自己満足の世界になりそうです。それに対して「死にがい」という言葉は、あまり熟していな言葉ですから、どのようなことを意味するのか定かではありませんが、どんな思いで自分の死を迎えるか、死に臨んで自分の人生をどのように総括するのかということを問うことではないかと思います。私たちの生涯は、自分では統御できない大きな力によって支配されています。「死」ということは、全ての人に全く平等に訪れるものです。そしてそれは前回ここで述べたように私たちは“その日その時を知らない”のです。
旧約聖書の詩人は、“私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください”(詩篇90)と祈っています。自分の日とはこの地上で自分に与えられている命のことです。その日をあと何年と何ヶ月であるかを数えることではないのです。ここで詩人は「生きる意味を教えて下さい。そうすることによって、時を重んじることを、私たちに教えて下さい」と祈っているのだと思います。私たちは自分という存在の有限さをしっかりと受け止める時に、はじめて自分の残された日、すなわち自分の死と正しく向かい合うことを考えはじめると思うのです。そして今自分に与えられている時間を大切に、有効に用いて行くことを考えて毎日を大切に生きていくことができるのではないかと思います。そのような生き方が、残される者への何がしかの感化を与え、感動を与えることが出来るならそれこそが立派な「死にがい」というものだと思います。今は「生きがい」を語ることが多くて、残念ながら「死にがい」に触れることはあまりありません。謙虚に自分の命と死を見つめる時を持ち、自分に残されて時間を大切に生きていきたいものだと思います。                        (S・M)

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