『祭壇を築き、天幕を張り、井戸を掘る』
はじめに
本日は、創世記26章のイサクの物語から、神に信頼して歩む者の祝福を見て参りましょう。
1) 順風満帆ではなかったイサクの歩み
神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:2)と約束されました。この約束(契約)は、神の選びの中で、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブに受け継がれました。彼らからイスラエル民族が起こされ、やがて全世界のメシヤである、私たちの救い主イエスが誕生するのです。
イサクは、アブラハム、ヤコブと比較すると、少し「影が薄い」ように思えるかもしれません。けれども、イサクもまた、二人と同じく、神に導かれた信仰者でした。神の大きな約束が与えられていましたが、その歩みは、順風満帆だったわけではありません。創世記26章には、彼が飢饉に遭遇し、ペリシテ人の地ゲラルに寄留したこと、恐れから妻リベカを妹と偽ったこと、また、死活問題に直面したことが記されています。
2) 祭壇を築き、天幕を張り、井戸を掘る
「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った」(26:25)。これはイサクの生涯の歩みを凝縮したような箇所です。
- 「祭壇を築き、主の御名を呼び求めた」…主に祈り、主の御声を聞いて従う礼拝者の姿です。
- 「天幕を張った」…天の都を目指す寄留者として生活する信仰者の姿です(ヘブル11:9-10)。
- 「井戸を掘った」…いのちをもたらすために共に労苦する奉仕者の姿です。
これらは、新約時代のクリスチャンと教会に委ねられている働きのひな型とも言えます。その土台は、「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ」(26:24)との、神の御言葉です。主イエスは、インマヌエル(神が我らと共におられる)の神です。揺らぐことのない主の御言葉に立ち、どのような状況の中でも、共におられる主に信頼し、礼拝者・信仰者・奉仕者として歩み続けましょう。
3) 塞がれた井戸、掘り続けるイサクとしもべたち
特に「井戸を掘る」ことについて、イサクとしもべたちが困難に直面したことが記されています。イサクを妬んだペリシテ人は、アブラハム時代の井戸をすべて塞いでしまいました (26:12-15)。移り住んだゲラルの谷間でも、水の所有権争いが生じました(26:19-21)。そのような中で、しもべたちは井戸を掘り続けました。なぜでしょうか。水の確保は、他に選択肢の無い「死活問題」だったからです。
「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14)。主イエスが約束された「永遠のいのちへの水」とは、聖霊のことです。クリスチャンと教会のいのちは、聖霊です。他に代わる選択肢はありません。教会は、生ける神のいのちと臨在そのものである聖霊を、井戸を深く掘るように求め続ける必要があります。聖霊を求め、満たされ続けるように励まされていること(ルカ11:11-13、エペソ5:18)を覚えましょう。
おわりに
井戸を掘り続けたしもべたちの労苦と忍耐は無駄ではありませんでした。主はイサクのために水を備えておられました(26:22)。ついに水を得た時、彼は「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった」(26:22)と、主に栄光を帰しています。今日、主は、聖霊に渇いて共に井戸掘るしもべたちを求めておられます。主のチャレンジに応えてまいりましょう。主は、渇いて求める者たちに「聖霊を下さらないことはない」お方なのですから。