『弱いときに注がれる神さまの力』
はじめに
今日はファミリー礼拝です。子どもも大人も、主イエスを信じる信仰によって、神の祝福を共に受け継ぐ者とされていることを感謝しましょう。本日は、創世記に登場するヤコブの物語を共に見て参ります。
1)人を出し抜くヤコブへの神の約束
アブラハム、イサクと並び、信仰の父祖の一人とされたヤコブですが、その歩みは順風満帆ではありませんでした。長子の祝福を得るために、双子の兄エサウを出し抜き、父イサクを騙したヤコブは、エサウの怒りから逃れるために親戚のラバンの元に身を寄せ、その後20年間をラバンに仕えて生活します。
「人のかかとを掴む」との名の由来通り、ヤコブは自分の力を頼みとし、人間的な画策で幸いを得ようとしました。しかし、神の祝福は人の力や思惑でもぎ取ることはできません。受けるに値しない者をあえて選び、ただ恵みとして与えられるのが神の祝福です。問題だらけのヤコブに対し、神は「わたしはあなたと共にいる…あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と破格の約束をされました(創28:11-15)。恵みを受けるのに必要なことはただ一つ、真実な神に対する信頼(=信仰)です。主イエスを信じる信仰によってのみ、私たちは罪洗われ、永遠のいのちと神の国を受け継ぐ祝福をいただくのです。
2)恐れ、祈るヤコブ
ヤコブがラバンに仕えた20年間は、楽な生活ではありませんでした。しかし、共におられる主によって、家族が与えられ、財産も豊かにされたのです(創31:6-9)。神の導きにより、故郷カナンに帰る時が来ましたが、その道中で、ヤコブは最大の問題に直面します。兄エサウとの再会です。神は、共におられるしるしとして、み使いの陣営を見せて下さいました(創32:1-2)。しかし、ヤコブの心は恐れで満ちていました。様々な策によっても平安は無く、彼は、神に必死に祈ります。「主よ。私は、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。…どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください」(創世記32:9-12)。
主なる神は生きておられ、私たちの思いや願いをはるかに越えて、祈りに答えて下さいます(エペソ3:20)。さらに、祈りは、神が主権をもって働かれる事に対し、私たちを備えさせます。
3)力を砕かれ、神に信頼するヤコブ
祈りの答えがやって来ました。一人の神からの使いが、明け方までヤコブと組み打ちしたという不思議な記事が続きます(創32:24-31)。エサウとの問題が解決する前に、まずヤコブ自身が、神の方法で取り扱われる必要がありました。ヤコブがみ使いに「勝った」のは、肉の力を神に砕かれた事を通して(32:25)、神がヤコブに勝利を与えることができたからです。頼みとしていた力を打たれ、弱さを知り、ただ「私を祝福してください」と、神に全面的に信頼する以外に道が無くなって初めて、ヤコブの内に、神の恵みの力が働いたのです。この後、あれほど恐れていたエサウとの再会は、逆に、神の御手を覚える幸いな時となりました。
神だけが、人の内側をきよめ、神の祝福をもたらす器へと造り変えることがおできになります。主は聖霊により私たちをキリストに似る者として日々造り変え、主の祝福を運ぶ器として用いて下さるのです。
おわりに
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)。弱さの中でこそ、共におられる主の恵みの力が私たちに働きます。どのような状況の中でも、約束に真実な主に信頼し、主の御手に自分自身を委ねて祈り、共におられる主の恵みの内を歩んで参りましょう。