『皆に神の霊が与えられるように』
はじめに
本日の聖書箇所から、神に対するモーセの祈りと願いをみてまいります。
Ⅰ.この世にある神の共同体
シナイ山から約束の地に向かって荒野の旅をするイスラエルの民は、三日の道のりを進んだパランで(民10:12、33)、主に対して激しく不平を言いました。発端は、民に混じっていた異邦人たちによるもので(出12:38、民11:4)、それが民全体に広がったのです。民は、荒野の旅のために様々な準備をし、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いておられる主の恵みを忘れてしまったのです。
神はこのことで民をさばかれましたが、それは民の中に異邦人がいることではなく、イスラエル自身が、彼らにつられて神の恵みを忘れて不平を言ったことが原因でした。教会は、様々な人々が召し集められていますが、神の御言葉によって、聖霊による一致を与えられて建て上げられている共同体です。神の恵みを感謝し、この世と調子を合わせるのではなく、むしろ神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けて行きましょう(ローマ12:2)。
Ⅱ.執り成し祈る
モーセは、民の繰り返される不平に耐えきれずに、指導者として、民のために負っている辛さを神の前に差し出し、また民のために執り成し祈ります(民11:11-14)。神は彼の祈りに答えて、民の望みを聞くと同時に、モーセに臨んだ同じ霊を70人の長老たちに注ぎ、神の働きを強くされると言われました(民11:16-30)。
モーセが、民のために執り成す祈りの姿は、主イエス・キリストの姿を表わしています。さばかれて当然な全ての罪人のために、主は罪の赦しの贖いの代価として、ご自身の命を十字架に捧げて下さいました。このキリストの十字架の贖いによって、主を信じる者はだれでも罪赦され、救いを頂けるのです。主の救いを頂いた私たちは、隣人たちの救いのため、執り成し祈るものとさせて頂きましょう。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになること」(Ⅰテモテ2:4)を望んでおられるのですから。
Ⅲ.主の民に神の霊が与えられる
天幕には出て行かなかった二人の長老たちが、宿営の中で預言していたことが知らされます。この時、ヌンの子ヨシュアは「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」と言います。モーセは、「主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」(民11:29)と言って、彼らをやめさせませんでした。
モーセの願いは、ペンテコステの日に成就しました(使徒2:1-4)。その時以来、聖霊は今もすべて聖徒たちに注がれ続けています。神は御霊の賜物を用いて、クリスチャンがキリストの証人として、神の御国を建て上げて行くように導いてくださっています。神が一人ひとりに与えて下さっている聖霊の賜物によって、互いに執り成し合いながら、約束の地を目指して前進して行きましょう。
おわりに
モーセは、すべての人に主の霊が臨むことを願いました。それは、神の御子イエスの十字架の贖いを通して、すべて主を信じる人々に与えられています。内に居て下さる聖霊によって、それぞれが与えられた賜物を通して、福音を宣べ伝えるため、また御国の建設のために用いさせて頂きましょう。