『よみがえり、命の主』
はじめに
本日から受難週になります。よみがえりでありいのちである主イエスについて見てまいります。
Ⅰ.人を愛される神
ベタニアに、主イエスを信じて愛し、また主も彼らを愛していたマルタとマリアそしてラザロの兄弟姉妹がいました。ラザロが病気になって死にそうなので、二人の姉妹は主イエスに来ていただくようにと使いを送ります。しかし、主はラザロが死んで四日目に来たのです。彼らは、主が癒しの力を持った救い主であることを信じていました。そして、彼らの主に対する信頼は、ラザロが死んだ後も変わりませんでした(ヨハネ11:21-22、32)。
神の御業には、神の時があります(伝3:1-8、11)。人はだれも、神の御心を完全に知ることはできません。しかし、私たちを愛してやまない神が、私たちに全てのことを益となるように導き(ローマ8:28)、ご自身の栄光を現わされれることは、信仰によって知ることが出来ます。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神の愛を覚えましょう(ローマ8:31)。
Ⅱ.私たちと共におられる神
主イエスは、兄弟の死を悲しみ嘆いているマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります」と語られました。マルタは「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」と主に応えます(ヨハネ11:23-24)。彼女は、主が語るよみがえりを、世の終わりのよみがえりと理解していたのです。
主は彼女に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25-26)と言われました。これは、世の終わりの日の復活だけではなく、神を信じる全ての者は、主の復活の命に生かされていることを示しているのです。今も生きておられる主は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と宣言されたインマヌエルの神なのです。
Ⅲ.罪の赦しと永遠の命を与えてくださる神
主イエスは、ラザロの死を嘆き悲しむ姉妹や彼女たちと一緒に来たユダヤ人たちが泣いているのをご覧になり、二度も「霊に憤り」を覚えられました(ヨハネ11:33、38)。この主の憤りは、人々に向けられたものでなく、人々を捕えて支配し、希望を失わせている死の力に対して向けられたものです。主はその死に対して、圧倒的に勝利する者であることを示すために、ラザロをよみがえらせました。
死は、人の罪ゆえに、全ての人に臨みました(ローマ6:23)。しかし、父なる神の願いは、人の死ではなく、神と共に永遠の命に生きることです(Ⅰテモテ2:4)。神は、御子イエスをこの世に遣わし、その十字架の贖いによって、罪の赦しと永遠の命をいただく道を備えられました。主イエスを、救い主として信じる者はだれでも救われるのです(ローマ10:13)。
おわりに
主イエスは、ご自身が死にさえも打ち勝つ者であることを、ラザロをよみがえらせることで示されました。主の十字架の贖いによって、信仰によって永遠の命を頂く道が備えられました。だれでも主を信じる者は、主の復活の命に生かされ続けるのです。