『建て上げられていく群れ』
はじめに
本日は、御言葉と祈りによって建て上げられて行く神の民の姿を見てまいります。
Ⅰ.神の召し
モーセは、同胞の解放について、エジプトで挫折を経験し、気力も情熱も失せて、ミデアンの地で羊飼いとして生活している時に神の召しを受けました(出3:1-10)。モーセの召しは、出エジプトというイスラエルの救いが、人の知恵や能力によるのではなく、神の御業であるということを示しています。
使徒パウロは、自分の持っているものを誇りとはせず、むしろ自分の弱さを誇りとしました(ピリピ3:4-8)。それは、弱さの内にこそ働く主の御業を知っていたからです(Ⅱコリント12:9)。私たちが、主イエスの救いを頂いたのは、神の恵みによることであり、人の知恵や力に拠ることではないことを覚えましょう(エペソ2:5)。
Ⅱ.神に委ねて捧げる幸い
モーセは出エジプトの働きをする時、一時的に家族と別れて生活します。これは、神の使命遂行のためには、家族を顧みるべきではないということでは決してありません。これは、モーセと彼の家族にとって、神の祝福を受けるために必要な過程でした。後に、モーセのしゅうとイテロは、イスラエルが出エジプトを成し遂げたことを知って、先に送り返されていたモーセの妻と二人の息子を連れてきます。そして、モーセの家族は、神の民イスラエルに加えられたのです(ルカ18:29-30)。
神を信じて、与えられた使命を果たすために、私たちは一時的に自分が持っているものを主に捧げなければならないことがあります。それは、神の方法に従うためです。神の方法に従うとき、神は私たちが捧げ委ねたものをきよめ、さらなる祝福をもって返してくださるのです。主イエスは言われました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:25)と。
Ⅲ.御言葉と祈りを中心とする
モーセの証しを聞いたイテロは、神をほめたたえます(出18:8-12)。モーセは、離れていた家族と再会すると同時に、異教の祭司だったイテロと共に神を礼拝するという幸いを得ました。この後、イテロはモーセのさばきを見て助言します(出18:14-23)。これによって、イスラエルの民は、神の民として整えられ、作り上げられていく大きな一歩を踏み出すことになります。
イテロの助言とは、単にモーセの責務の負担軽減とか、多くの民が公正にさばかれるためだけのものではありませんでした。「あなたは神の前で民の代わりとなり」(出18:19)とある通り、モーセが御言葉と祈りに集中するためのものでした。これによって、イスラエルの民全体は、神の御言葉を聞いて神に従い、神の民として整えられ、作り上げられて行くのです。今日の教会も、御言葉と御霊の導きにより、整えられ建て上げられて行くことを祈り求めて行きましょう(エペソ2:21)。
おわりに
イテロの助言で、モーセは御言葉に堅く立ち、主の前に民の代わりに立つ(祈る)ことに集中するようになりました。これによって、イスラエルは神の民として整えられて行きました。今も変わらない主は、御言葉と聖霊によって教会を整え、建て上げておられます。御言葉に堅く立ち、聖霊を求め続けましょう。