『しかし、たとえそうでなくても』
はじめに
本日は、窮地に陥った中でこそ主を仰ぎ望んだ3人の信仰の姿を見ます。
Ⅰ.真の神だけを礼拝する
ネブカドネツァル王は、自分の権力を誇示するために金の像を造り、すべての民にそれを拝むように命じました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴたちは、命をかけてもこの偶像を拝むことをしませんでした。
真の神を知らない世は、偽りの神々を何の抵抗もなく拝むでしょう。あるいは、同調圧力のようなもので、暗黙のうちに偶像の神々を礼拝するように強いられることもあるでしょう。しかし、真の神である主の十字架による救いを頂いた私たちは、この世と調子を合わせるのではなく唯一の神キリストを礼拝するのです(ローマ12:2)。それによって、主は神に信頼する者たちに神の栄光を現わして下さるのですから。
Ⅱ.どんな時にも神に信頼せよ
偶像を拝まなかったシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは訴えられて王の前に立たされます。彼らは、唯一真の神のみを礼拝すること、「神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができるお方」であること、そして、たとえ火の炉の中に投げ入れられたとしても、「私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」と答えました(ダニエル3:14-18)。
彼らの信仰は、自分に都合が良い時は神を信じ、都合が悪くなると信じることはやめるというようなものではありませんでした。たとえ結果が望んでいたことと逆であったとしても神に信頼し、どこまでも主を信じて従うというものでした。主イエスはこの地上での生活において、如何なる時も、そして十字架の死にまでも神に従われました。それゆえ、父なる神は「御子を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」(ピリピ2:6-9)。私たちも主イエスや3人の信仰者たちに倣い、神に全信頼を置いて主に従いましょう。主に信頼する者は、失望させられることがありません(ローマ9:33、10:11、Ⅰペテロ2:6)。
Ⅲ.苦難の中にこそおられる主
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、炉に投げ込まれます。しかし、彼らはやけどもなく火の臭いさえもなく無傷でした。さらには、王は炉の中に彼らと一緒にいる第四の者がいるのを見ます(ダニエル3:21-26)。このことによって、王は3人が信じている神をほめたたえ、さらには3人をバビロン州で栄えさせました(ダニエル3:21-30)。
3人は、火が燃えさかる炉の中でこそ神の助けと守りを受け、さらには王に真の神を証しすることになったのです。神は時に、私たちをご自身の愛する子として、信仰の試練を受けることを許されます(ヘブル12:6-7)。しかし、神は「試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)そして、試練を耐え抜いた人には、神は約束されたいのちの冠を与えられるのです(ヤコブ1:12)。この「いのちの冠」を受けるために、主に全く信頼を置いて共に歩み続けましょう。
おわりに
この世において、キリストの聖徒たちは困難に出会います。主イエスは私たちと共にいてくださり、「あなたがたは、世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)と励ましておられます。たとえ願ったとおりでなくても、主イエスに信頼し、信仰生活を歩み続ける時に、真の幸いを受けることを覚えましょう。