『労苦に伴う主の報い』
はじめに
今朝は、預言者エレミヤの書記バルクに対して語られた神のことばを通して、主の働きに忠実に仕えることの幸いを共に見て参ります。
1)バルクの忠実な奉仕
エレミヤは、エルサレムがバビロンにより包囲・陥落に至る時代、南ユダ王国の五人の王の治世に渡り、警告と悔い改め・バビロン捕囚と回復・メシヤについての約束を含む、神のみ言葉を伝えた預言者です。エレミヤの背後に、エレミヤと共に奉仕したバルクがいます。バルクは、エレミヤを通して語られた神のみ言葉を巻物に口述筆記し、エレミヤが監禁されている間も、その巻物を神殿で人々に読み聞かせました(36章)。
主の働きは、決して個人プレーで成されるものではありません。預言者の助け手として、バルクが忠実に奉仕したように、み言葉が伝えられるために、御霊の一致をもって共に主の働きに携わる忠実な者たちを主は求めておられます。教会は、まさにそのような労苦を共にする主の働き人たちの群れです。
2) バルクに語られた主のみ言葉
エレミヤとバルクの働きは、人々の無理解と脅迫の中での、命がけの働きでした。バルクが労して記したみ言葉の巻物は、大きな悔い改めをもたらすどころか、エホヤキム王によってすべて焼却されてしまいます(36:22-23)。エレミヤを通してバルクに神のみ言葉が語られたのは、まさにそのような時です(45:1-2)。主は、バルクの痛みと嘆きをご存じでした(45:3)。忠実な労苦の割には、目に見える芳しい結果や報いという「大きなこと」(45:5)が見られない状況に、バルクは失望していたのかもしれません。
主は、私たちの願いと期待、痛みと失望をすべてご存じです。バルクが、痛みと嘆きの中で主のみ言葉を聞いたように、私たちも、聖霊を通してタイムリーに語られる主のみ言葉をいつも聞く必要があります。幸いなことは、自分の願いや思いが全うされることではなく、み言葉により主の大きな御心を悟り、主が成される最善に期待する信仰に生かされることです。そこにこそ、いのちと幸いがあるからです(45:5b)
3) 忠実に仕える者に報いられる主
主はバルクに、「見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする」(45:4)と語られます。これは、直接的には、背信のイスラエル(ユダ)の民に対するバビロン捕囚というさばきを予告するものです。しかし、エレミヤ書全体を通し、主は、ご自身の計画と御手の中でイスラエルを回復されること、またメシヤによる「新しい契約」(31:27-34)を約束されました。バルクに対しては「わたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」と(45:5b)、勝利の約束が与えられています。み言葉に仕えるバルクの忠実な奉仕は、主に覚えられていました。
私たちは、「なくなってしまう食べ物のためではなく、…永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)と招かれています。まことのいのちと救いを得させ、人を造り変えるキリストの福音を共に宣べ伝えましょう。主にある労苦には、必ず報いがあるのですから。
おわりに
私たちは今、御子イエス・キリストの救いにより、いのちと幸いに生かされています。み言葉により信仰の確信と一致を保ち、主の恵みにより労苦を共にする幸いに生かされて参りましょう。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります」(ヘブル10:35)。