『ただ捕らえようとして』
はじめに
本日の聖書箇所から、キリストを知ろうとして走りづけるパウロの信仰をみてまいります。
Ⅰ.救いは神の恵みによる
パウロは、「悪い働き人たち」、すなわちユダヤ主義者たちに気をつけるようにと警告します(ピリピ3:2)。彼らは、信仰によって救われるということを否定し、割礼に代表されるような律法を行うことなど、人間的に誇れることによって救われると教えていたのです。
パウロ自身、かつては人間的に誇れるもので救いを得ていると信じていました(ピリピ3:4-6)。しかし、彼は、復活の主イエスが出会ってくださったことによって、救いは人の業によるのではなく、神からの一方的な恵みによる賜物であると知ったのです。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ2:4-5)
Ⅱ.神の救いの恵みに応えて生きる
パウロは、キリストによる救いを体験したとき、主の十字架の偉大な恵みを知りました(ピリピ3:9)。彼は、その恵みに応えて「キリストの復活の力」と「キリストの苦難にあずかること」を知りたいと願います(ピリピ3:10)。前者は、日々の生活における主の新しい命に生かれること求めることです。また、後者は、神の御子が罪人のために人となり、十字架にご自分の尊い命をささげてくださったへりくだりの姿に倣うということです。
私たちも、キリストの十字架の救いを頂いた者です。神の民とされたことを感謝して、復活の新しい命に生かされ続け、キリストの似姿にまで成長するように御言葉に堅く立ち、聖霊の導きを求め続けて、主と共に信仰生活を歩み続けましょう。
Ⅲ.復活に達したい
パウロは、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(ピリピ3:11)と語ります。続けて、彼は投獄されて処刑が間近に迫っているにもかかわらず、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と語ります(ピリピ3:12)。これは、主が再臨された時の救いの完成を待ち望む信仰です。彼は、明確な目標をもって、それに向かって走り続けているのです。
私たち教会も、このパウロの信仰に倣っています。主の再臨の時が近づいているからです。神の御国に向かって、進み続けましょう。とどまることは許されていません(黙示録22:20)。私たちはなお一層、御言葉によって常に養われ、聖霊の導きをいつも求めて行きましょう。
結 び
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、すでに罪赦され、神の御国の世継ぎとされている約束を頂いています。この約束の故に、永遠の御国を目当てとして歩む幸いに生かされていることを感謝しましょう。主は御言葉をもって、また聖霊によって、私たちの信仰生活を導いてくださるのですから。