『救いは主のもの』
はじめに
本日は、ヨナの祈りから、「救いは主のもの」であるということについて見てまいります。
Ⅰ.御顔を避けて逃れる者をも顧みられる主
ヨナは、嵐の海に投げ込まれ、大魚に呑まれて、さらに恐ろしい状況に陥ります。彼は神を信じてはいましたが(ヨナ1:9)、「よみの腹」と呼ばずにいられない状況になって初めて神に祈ったのです。さらに、すべての事の上に主の御手があることさえも知ったのです(ヨナ1:12、2:2-3)。主は、御顔を避けて逃れる者をも顧みられるお方です。
私たちは、今も様々な理由から試練に遭うことがあります。それは、主の前にへりくだり、主に拠り頼まなければ受けられない神の祝福を頂くためであることを覚えましょう。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(ヘブル12:5-6)
Ⅱ.主の救いの御手は差し伸べられている
ヨナは、大魚の中にあって、なお主に拠り頼むことのできる信仰を見いだします。そして、「私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」という救いを確信します(ヨナ2:7)。
いかなる状態であっても、ヨナが大魚に呑み込まれた時のように、私たちにも主の救いのしるしが与えられていることを覚えましょう。主イエスは、「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」(マタイ17:20)と信仰を求められました。主の十字架の贖いによって、私たちを永遠の滅びから永遠の命へと導き出してくださった神の愛に信頼して、どんな時にも主に祈り、主との幸いな交わりに生き続ける歩みをさせていただきましょう(マタイ18:19)。
Ⅲ.救いは主のもの
主は、ヨナの祈りに応えて(ヨナ2:2、2:9)、魚に命じて彼を陸地に吐き出させます(ヨナ2:10)。主はヨナを救っただけではなく、主ご自身を深く知らせ、その使命を果たさせようとされたのです。
主イエスの十字架の贖いによって、私たちは神との正しい関係に入れられました(エペソ2:14)。さらには、聖霊が共に居てくださり、神を「アバ、父よ」と呼ぶことを許されたのです。私たちの救いのために、御子をさえも惜しまずに与えてくださった父なる神の救いの招きに応えましょう。「救いは主のものです」(ヨナ2:9)から、主と共にある幸いを感謝して、主の救いを隣人に伝えて行きましょう。
結 び
主は「主の御顔を避け」ていたヨナを救い、彼を取り扱い、神の使命を果たすようにと導かれました。主の十字架の贖いによって罪赦され、主の民とされた今の私たちにも(Ⅰペテロ2:9)、主の使命が与えられています。また、信仰の歩みにおいて、主ご自身と主の御心を深く知る祈りの恵みが備えられています。救われたことを感謝し、主の御心を深く知り、隣人に主の救いを宣べ伝えて行きましょう。