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『神に仕える者の自由』

説教:髙橋正人師

はじめに

本日は、主を礼拝する民にこそ、真の自由が与えられていることをみてまいります。

Ⅰ.真の自由は神を礼拝すること

モーセとアロンは、エジプトの王パロ(ファラオ)のもとに行き、神が言われたことを語ります。それ、神の民に荒野で「祭りをさせる」こと、すなわち神を礼拝し神に仕えるようにせよということです(出5:1)。

出エジプトが意味することは、イスラエルが単に奴隷状態から解放されることや人権を守るというようなことではなく、神の民が神を礼拝するという自由への解放です。人間の本当の自由は、真の神を礼拝し、神に仕えることができるようになることです。私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、罪の奴隷から解放されて、主を礼拝する者とされました。神の民としてくださった主の恵みを覚えて、ますます霊とまことをもって神を礼拝しましょう。

Ⅱ.耐え忍んで堅く信仰に立つ者の幸い

パロは、モーセたちの言葉を聞くと、「なぜ民に仕事をやめさせようとするのか」と言って、民を去らせないどころか、さらに過酷な労働を加えました。このことで、民は、自分たちの状況がますます悪くなってしまったと、モーセたちを責めました(出5:21)。

民の人夫のかしらたちは、目先の一時の苦しみからの解放に関心がありました。しかし、神が民に与えようとされていたのは、苦しみの根源である奴隷状態から救い出し、真に自由な主の選びの民として生きることの幸いでした。神を信じて歩む時、困難や試みがやって来ることがあります。しかし、それらは一時的なもので、耐え忍んで堅く信仰に立つ者には、主の報いが与えられることを覚えましょう(ヤコブ1:12)。近視眼になって、救いの恵みを見失ってはなりません。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのですから(マタイ10:22)。

Ⅲ.主に従う者とされた幸い

イスラエルの民は、神を礼拝して神に仕えるのか(出5:1、3)、それとも奴隷のままでエジプトに仕えるのか(出5:15、16)という選択を迫られたのです。そこには、戦いがありました。

現代の私たちも、主を信じて従い、主を礼拝しようとする時、様々な妨げとの戦いを強いられます。この世の「パロ」は、私たちを奴隷のままにつなぎとめようとします。私たちクリスチャンは、主の十字架の贖いによって罪に死んで、キリストのよみがえりの命に生かされている自由人とされました(ローマ6:3-4)。「主の御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリント3:17)。キリストによって、自由人とされた私たちは、その自由を神のしもべに相応しく用いるようにさせて頂きましょう(Ⅰペテロ2:16)。

結 び

主なる神を礼拝しつつ生きることに、本当の自由があります。この世にあっては、様々な信仰の戦いがあります。しかし、主なる神は、強い手をもって必ず私たちを導き続けてくださいます。主を見上げて希望を抱いて、忍耐しつつ信仰に堅く立たせていただきましょう。

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