『主を待ち望む幸い』
はじめに
本日よりアドベント(待降節)に入ります。主の御降誕の意味を深く覚えつつ、主は私たちを恵みで満たそうと待っておられるお方であるということを見てまいります。
Ⅰ.主と共に歩む幸い
南ユダの民は、北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの脅威にさらされていました。民は、主なる神を抜きにして、自分たちではかりごとをめぐらし、エジプトに助けを求めます。主は、そのようなユダの民を「反逆の子ら」(イザヤ30:1)と呼びました。結果、エジプトは何の助けにもならず、民はむしろ恥とそしりを受けることになったのです。
ここで問題になっていることは、神を抜きにしてはかりごとをたてることです。私たちは最初に、神の御心を求め、主がご計画に従って事を許しておられることを信じて、神のご計画の中に参画させて頂くことを求めましょう。「神は、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
Ⅱ.主に信頼する幸い
主はイザヤに、ご自分の御言葉を書き記すようにと言われます。それは、民の苦しみは、神の御言葉に従わないことによることを示すためでした(イザヤ30:8-11)。主のみ心は、民が「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)というものでした。
人には、神を待っているよりも、「われわれは馬に乗って飛んで行こう」と大急ぎで事を成し遂げなければならないと、追い立てられるように走り回る弱さがあります。「早馬に乗って」いると思っても、追っ手はなお速いのです。主に信頼すること、主の御言葉に堅く立って、主を待ち望むことが最も確かで、近道なのです。
Ⅲ.神は待っていて恵みを与えられる
民が救われる道は、ただ主に立ち返って信頼することでしたが、彼らはこれを望みませんでした。主はあくまでも反逆し続ける南ユダの民に、「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」(イザヤ30:18)と語られます。主なる神は、全く受けるに値しない反逆の民に対しても、神の過分な愛を恵みとして注がれたのです。
主は値なしに、叫び求める者に恵みを豊かに与えてくださいます。私たちを愛してやまない父なる神は、私たちが滅びることのないようにと、御子イエスをさえ惜しまないで与えてくださいました(ヨハネ3:16)。私たちは、この主イエスによって与えられる救いの恵みを、信仰を持って受け取り続けましょう。
結 び
主は反逆の民に対しても、いや、反逆の民であるからこそ、待っていて恵みを与えようとしてくださっています。今が救いの日、恵みの時です。主の招きに応えて、主イエスの十字架による救いと、主と共に歩む幸いを信仰によって頂きましょう。