『アブラハムの信仰にならう』
はじめに
本日は、アブラハムの信仰から、神に義とされること、そして救いの恵みについて見てまいります。
Ⅰ.信仰によって義と認められる
パウロは、救いは神の恵みと信仰のみによると語りました。そのことを、自分たちの先祖でありユダヤ民族の源であるアブラハムのことを取り上げて示しました。アブラハムが神に義と認められたのは、彼が神を信じた信仰によるのであって、行いに拠ることではありませんでした。彼が、割礼やその他の神の命じたことに従ったのは、神を信じた結果としての行いでした。
人は神に信頼して、神の時を待つというよりも、自分で事を行って安心を得ようとしたがるものです。しかし、神は人の行いではなく、主イエスを信じる信仰によって救ってくださるのです。主はいつも私たちを救いへと招いてくださり、神の命に生きるようにと導いてくださっています。主の招きに応えましょう。
Ⅱ.望みえないときに望みを抱いて信じました
聖書が語るアブラハムの信仰は、「望みえないときに望みを抱いて信じる」信仰であり(ローマ4:19)、神が「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」であるというものです(ローマ4:17)。
私たちの信仰生活は、どの様な神を信じているかで決まります。死んだ神を信じているならば、信仰生活も死んだものとなるでしょう。しかし、生きて共に歩んでくださっている主イエスを信じるなら、その信仰生活は豊かな命に生かされる実り多きものとなるのです。主イエスは、目には見えなくても生きて私たちと共に歩んでくださっています。主は私たちの内に、神の御業と栄光を現してくださることを覚えて、主の御名を賛美しましょう。
Ⅲ.主イエス・キリストを信じる信仰
アブラハムが、信仰によって義と認められるというのは、彼のためだけではなく、後の子孫、すなわち「私たちのため」でもあったのです。「主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされ」、救いに与ることができるのです」(ローマ4:24)。アブラハムの信仰は、神すなわち主イエス・キリストを信じて救われる、私たちキリスト者に与えられた恵みの先取りでした。
「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」(ヘブル11:12)私たちも、キリスト抜きには「死んだも同様」の者でした。しかし、キリストの十字架の贖いによって神の豊かな命に生きる者とされ、望みを与えられ、恵みを運ぶ者とされました。この主イエスから目を離さず、いつも主を見上げて歩み続けましょう。
結 び
アブラハムは、信仰によって義と認められました。今、私たちは、主イエス・キリストを救い主として信じるとき、信仰によって救われます。主イエスを信じて心に迎え入れ、この素晴らしい救いの良き訪れを隣人に語り伝えましょう。