『神に喜ばれる歩み』
はじめに
本日の聖書箇所から、神に喜ばれる生活について見てまいります。
Ⅰ.キリストに似る者とされる
パウロはテサロニケの聖徒たちに、やがて訪れる主の再臨に備える「歩み」をするように勧めます(Ⅰテサロニケ4:1-2)。「歩み」とは、クリスチャン生活のことで、神を喜ばせることがその中心です。
私たちは、主を知る以前は、自分を喜ばせることだけに生きていました。しかし、創造主である神を知り、主の救いを頂いて、主と共に歩む者とされました。聖書はさらに、神のみ心は、私たちが成熟し、キリストに似る者とされることであると語っています(ヘブル6:1)。私たちは、主イエスを仰いで歩み続ける永遠の命に生かされている幸いを感謝いたしましょう(ヨハネ17:3)。
Ⅱ.神の前に聖くされる
神に喜ばれるために、聖書が勧めていることは、全てのキリスト者が「聖くなることです」(Ⅰテサロニケ4:3)。「聖い」とは、ここでは神の目的のために分けること、区別することを意味しています。
最初に、「聖くなる」ためには、不品行を避けるべきことを教えています。キリストの聖徒のからだは神から受けた聖霊の宮なのですから、それを不品行によって汚してはならないからです(Ⅰコリント6:19-20)。もう一つは、「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりする」Ⅰテサロニケ4:6)ことになり、神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてしまうからです。
父なる神は、私たちを「聖なる神の民」とするために、御子イエスを世に遣わしてくださいました。私たちは、主の十字架の贖いの土台の上に、信仰と恵みによって、罪を赦され、永遠の命を頂き、神の民とされているのです。主の救いに感謝して、自分自身を生きた聖なる捧げ物としつつ、主に仕えて行きましょう(ローマ12:1-2)。
Ⅲ.互いに愛し合う
神に喜ばれるもう一つは、互いに愛し合うことです。テサロニケの教会は、パウロが「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません」というほどに、キリストの救いの恵みで溢れていました。それが具体的な一つの形となって現れ、「マケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していた」のです(Ⅰテサロニケ4:9-10、Ⅱコリント8:1-5)。
また、落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れて働くことも、神が喜ばれることです。それによって、「外の人々に対してもりっぱにふるまい」、主の栄光が現されるからです(Ⅰテサロニケ4:11-12)。神に喜ばれる生活によって、私たちと共に隣人にも主の恵みを分かち合うことができることを覚えましょう。
結 び
神に喜ばれる歩みは、自分だけではなく、周りの人々にも主の恵みと祝福を分け与えます。ですから、世と調子を合わせるのではなく、御言葉と聖霊の導きによって、神のみ心を求め続け、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、主を見上げて歩み続けましょう。