『聞く耳のある者は』
はじめに
本日の聖書箇所から、御言葉を信仰の量りで聞くことの幸いを見てまいります。
Ⅰ.すべての人を照らすまことの光
主イエスは、「あかり」のたとえによって、主がもたらす神の支配や救いは、今は隠されていても、やがて公に現されるということを教えました。主イエスの誕生においても、また十字架の贖いにおいても、神の御心を理解する者は誰もいませんでした。当時、神の真理を現すあかりは、人々が十字架で消し去ったように見えたことでしょう。しかし、父なる神はその御力によって、御子を死者の中からよみがえらせ、「まことの光」(ヨハネ1:9)として輝かせたのでした。
「すべての人を照らすまことの光」である主イエスは、信じる者を「世界の光」(マタイ5:14)としてくださいます。私たちは、主イエスの十字架の贖いによって世の光とされたのですから、神の国が隠されているように見える現実のこの世で、「あかり」を輝かし続けさせて頂きましょう。
Ⅱ.世にあかりをともす教会
教会は、主イエスという「あかり」によって集められ、その「あかり」を灯す群れです。どんなに小さな光でも、暗闇の中ではっきりとした目印となります。人々の目には隠されて見えないようでも、キリストの体である教会は、主イエスという「あかり」を灯しているのです。
聖霊は、主を信じる者の内に住んで(Ⅰコリント6:19)、キリストというあかりを放つお方です。その「ひかり」は、暗闇の中でも聖徒の内から溢れて隣人へと向かいます。主の救いを受けた私たちは、イエス・キリストこそ神の子、救い主で、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていない」(使徒4:12)ということを大胆に証しして行きましょう。
Ⅲ.聞いていることに注意しなさい
主は、「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです」(マルコ4:22)と言われました。その時、私たちに問われることは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているように、何を聞いているかということです。真実に御言葉に聞く時、必ず心が動かされ、探られ、ますます神に信頼するからです。ですから、主は続けて「聞いていることによく注意しなさい」と警告されます。
人はその信仰の量りに応じて、神の言葉を聞いて受け止めます。その量りによって、「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまう」(マルコ4:25)のです。自分の量りではなく神の量りに委ねましょう。神の御言葉に聞き従うことによって、私たちのただ中に、神の支配が現されていくことを覚え、御言葉に聞き御霊の導かれて歩み続けましょう。
結 び
神の支配は、肉眼では見えにくいものです。しかし、神のみ業は隠れているようでも必ず現れ、おおい隠されているようでも、究極的には明らかにされます。神への信仰の量りをもって、注意深く御言葉を聞く耳を持ちましょう。