『主を畏れること』
はじめに
本日の聖書箇所から、知恵は神から来るということを見てまいります。
Ⅰ.試練を通して神を深く知る
ヨブに突然襲ってきた不幸のために、彼の友人たちはその原因について語ります。しかし、それらは神への信仰を語っていても、自分たちの信念を振りかざすばかりで、逆にヨブを追い詰めるものでした。ヨブは、友人たちとの論争の末、真の知恵はどこから来るのかを問います。それは、不幸や災難を受けた時など、全ての答えは真の知恵である神によってしかないことを理解したからでした。
主イエスの十字架の贖いによって神の子とされた私たちは、父なる神の訓練を受けることがあります(ヘブル12:5-8)。しかし、神は耐えられないほどの試練に会わせることはせず、むしろ、耐えられるように試練と共に脱出の道も備えておられます(Ⅰコリント10:13)。試練の中にも、主の深い愛とご計画があるのです。
Ⅱ.真の知恵は神から来る
ヨブは人の知恵を求める熱心さを、鉱物を採掘する時の人の知恵や技術、執念ともいえるような勢いに譬えて語ります(ヨブ28:1-11)。確かに人の知恵は、物心共に人々の暮らしを豊かにし、幸いをもたらしたことでしょう。しかし、そこには罪の問題の解決はありません。
ヨブは、「神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる」(ヨブ28:23)と断言します。真の知恵は、神が与えられるのです。聖書は、「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(ヨブ28:28)と語ります。主イエスこそ神の知恵であり(Ⅰコリント1:30)、私たちが主と共に生きるとき、神の知恵に生かされる幸いな歩みをさせて頂けることを覚えましょう。
Ⅲ.キリストこそ神の知恵
聖書は、真の「知恵」は神のもので、神からしか与えられないと教えています。知恵そのものである主は、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)。
父なる神は、御子イエスの十字架の贖いの業を通して、私たちに対する罪の赦しと神の子となる特権、そして永遠のいのちを与えてくださいました。主の十字架に示された神の愛を知るとき、主への畏敬が起きます。主への畏れの根底には、神の愛があるのです。すべての善いものは、神の愛が基となっているのです。知恵、そして愛である主イエスを求めましょう。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)
結 び
ヨブは、知恵は神のものであり、神しか与えられるお方はいないと語っています。私たちの主イエスは、神の知恵そのものであり、その知恵の根底は愛です。主イエスを深く知り、主に似る者とされることを求めてまいりましょう。