『新しい命に生きる喜び』
はじめに
本日は、主イエスが共におられることの喜びについてみます。
Ⅰ.父なる神に、主イエスの御名によって祈る
バプテスマのヨハネの弟子たちは、主に「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(マタイ9:14)と問いました。当時、断食という行為には、悲しみや悔いを表わす意味合いがありました。パリサイ人たちは、律法を遵守することで国が解放されるようにと祈り、またヨハネの弟子たちは、神の裁きが差し迫っているので、多くの人々に悔い改めの洗礼を授けようとして、熱心に祈っていたのでした。
キリスト者にとって、祈りは呼吸と同じであり、また祈りを通して主との豊かな交わりに入れられる大切なことです。主イエスも、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えられました(ルカ18:1-8)。断食の祈りは、祈りに専念するためであり、人に強いられてするものではありません。主の励ましに従って、父なる神に、御子イエスの御名を通して、聖霊に導かれて祈りましょう。
Ⅱ.主にある結婚式の祝宴にも似た喜び
主イエスは、「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう」(マタイ9:15)と答えました。主は、ご自身を花婿にたとえて、主が共におられることは結婚式の祝宴にも似た大きな喜びの到来を意味すると語られます。その一方で、ご自身が「取り去られる時」が来るとも言われました。これは、後の十字架のことを語る言葉です。
神にさばかれるべき罪人が、結婚式にも似た神の祝宴にあずかることができるようにされました。それは、御子イエスが、私たちの代わりに十字架でご自身のいのちをささげてくださり、三日目によみがえってくださったからです。ペンテコステの日の聖霊降臨以来、主を信じる者は、決して失われることのない主にある喜びに生かされ続けているのです。私たちは、確信にしっかりと留まり、主を喜び、感謝を持って歩み続けようではありませんか。
Ⅲ.主が与える新しいいのちに生きる
主イエスが与えてくださった喜びは、周囲の状況や人の感情など、いかなるものも押さえつけることができないものです。主はそれを、真新しい布切れで古い着物の継ぎをすることや、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるというたとえを用いて教えています(マタイ9:16-17)。
礼拝は、主の救いの御業を覚える祝賀の時、祭典の時といえます。どんな状況でも、主の救いと恵みを頂いていることを感謝しましょう。これまでの礼拝や諸集会、教会活動の本質を忘れることなく、パリサイ人たちやヨハネの弟子たちのように、本質以外の部分に必要以上に心を奪われることなく、主を霊と真によって礼拝し、主から頂いた喜びを携えて、それぞれの遣わされている所に出かけて行きましょう。
結 び
主イエスが与えてくださった救いの喜びは、なにものをも押さえつけることができないものでした。「新しいぶどう酒」である主イエスの喜びにあふれるいのちを、「新しい革袋」という心をもって受け入れましょう。