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『モーセのとりなし』

説教:髙橋正人牧師

はじめに

本日は、モーセのとりなしに答えられた主の赦しについて見てまいります。

Ⅰ.崇められるお方は主なる神のみ

出エジプト後に、モーセがシナイ山で主からの十戒と契約の書を受け取っていた時です。ふもとにいた民は、モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て不安になり、アロンのもとに集まって、偶像(金の子牛)を造って、これを神としたのです(出エジプト32:1-4)。

民は、モーセばかりを見て、モーセと共におられる主なる神を見ていなかったのです。それで、モーセがいなくなると不安になり、自分たちの都合の良い偶像を造り上げて神としたのです。真の神を信じていなければ、私たちも金の子牛に代表される偶像を造ってしまうことになります。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛」(マタイ22:37)しましょう。主なる神だけが、唯一真の神なのですから。

Ⅱ.主の怒りとモーセのとりなし

主は、偶像を造って崇めているイスラエルの民を見て、民を滅ぼしてモーセの子孫から生まれる民を自分の民とするとまで言われるほどに怒られました(出エジプト32:9-10)。しかし、モーセは主の前に、必死に民のためにとりなしました(出エジプト32:11-12,32)。これによって、「主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された」(出エジプト32:14)のです。

主なる神のみ心は、民が滅んでしまうことではなく、神にあって命に生きることです。そのために、神のみ心を知って祈りとりなす者を起こし、そのとりなしの祈りに答えて、滅ぼすことをさえも思い直してくださったのです。主イエスは、私たちのためにとりなしてくださった神の御子です。十字架でご自身の命に代えて、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださいました(ヨハネ10:11)。私たちも主イエスに倣って、主の心を自分の心とし、とりなしの祈りをしつつ、キリストを宣べ伝えましょう。私たちが救われたのは、キリストを証しするためでもあるのですから(Ⅰペテロ2:9)。

Ⅲ.脱出の道、イエス・キリスト

使徒パウロは、人が偶像礼拝や不信仰に陥るのは、試練や問題に遭うときであると警告を発しています(Ⅰコリント10章)。イスラエルの民にとって、モーセが山から降りて来るのが遅いということが、神からの一つの試練であり、また訓練でもありました。そこで、民は主なる神こそが自分たちを救って導いておられる方であるということ、そしてモーセは神に建てられた指導者であるということを再確認しなければならなかったのでした。

私たちは、様々な試練に遭うとき「試練とともに脱出の道も備えられている」ことを覚えましょう(Ⅰコリント10:13)。「脱出の道」とは、主イエスと置き換えられます。あなたを救うために、主イエスは十字架にかかってくださり、主の復活の命に生き続けるようにと、いつも共におられるのです。試練や困難を覚えるとき、かえって信仰をもって主に近づき、常に主との交わりに生きようではありませんか。

結 び

神の御子イエスのとりなしは、モーセのそれを遙かに超えるもので、ご自身を十字架にかけてしまわれるほどのものでした。今も生きておられる主は、父なる神の右の座におられて、私たちのためにとりなしてくださっています。あらゆる困難や試練の中で、主イエスのとりなしがあることを信じて歩み続けましょう。

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