『弱い時こそ強い』
はじめに
私たちの主は、私たちが弱い時にこそ強くしてくださるお方です。
Ⅰ.誇る者は主を誇れ
コリント教会の中に、“霊的”な体験をしたことをもって、自分たちが特別であると誇っている人たちがいました。パウロは彼らに、自分の体験を語りつつ、「自分の弱さ以外には誇りません」と断言しました(Ⅱコリント12:1-5)。
パウロは、この体験のゆえに、自分が高ぶることのないように「肉体に一つのとげ」が与えられたと語ります(Ⅱコリント12:7)。この「肉体のとげ」によって、彼は主の前に謙遜にされ、さらに主との交わりを深くすることができたのです。主のみ心を知ったパウロは、ますます神の御業を行いました。すべての善きものは、主が恵みによって私たちに与えられたものです。人の内に誇れるものは一つもありません。主なる神だけが崇められるべきお方です。「誇る者は主を誇れ。」(Ⅰコリント1:31)
Ⅱ.「とげ」は、人を神へと導く契機となる
パウロは、「肉体のとげ」を「三度も」去らせてくださいと主に願いました(Ⅱコリント12:8)。主はこの「とげ」を去らせてくださいませんでしたが、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と語られました。彼は、この「とげ」を通して、主のみ心が、愛と恵みをもって自分に成されていることを理解し、確信したのです。
私たちにも、人の力の及ばない「とげ」があります。しかし、その「とげ」は、私たちを主の元に導き、主に祈り、願いを起こさせてくれるものとなるのです。主を呼び求める時、主は確かに愛と恵みをもって、私たちを取り扱っておられることを知ることができるのです。
Ⅲ.私が弱いときにこそ、私は強い
主イエスは、私たちと同じ人となってこの世に来てくださいました。父なる神は、自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた御子イエスを、「高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6-8)。人の弱さをご存じの主は、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくだいました。しかし、よみがえられた主は、私たちと今も共におられるのです。イエス・キリストという宝は、「土の器」である私たちに与えられていて、私たちを通して神の栄光が現されているのです(Ⅱコリント4:7)。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6)のです。弱さを覚える時こそ、私たちが主の前にへりくだり、主の恵みを求めるチャンスです。主を呼び求める者に必ず応えてくださる主にあって、私たちも「私が弱いときにこそ、私は強くされる」と告白できるのです。
結 び
パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と断言しました。それは、私たちの弱さや欠けが、主に拠り頼み、主に近づく機会となるからです。主は、弱さや欠けをもつ「土の器」である私たちであるからこそ、救い主イエス・キリストという宝を現してくださるのです。