『見ずに信じる者は幸いです』
はじめに
主イエスは、復活を信じなかったトマスにも御自身を現し、御声をかけられ、彼に信仰を与えられました。どんな状況下でも、「わが主よ。わが神よ。」との告白に、私たちも立たせて頂けるのは何と幸いなことでしょうか。
Ⅰ.主の十字架は神との平和を与えた
トマスは、他の弟子たちから「私たちは主を見た」と聞かされますが、その言葉を頑なに信じませんでした(ヨハネ20:25)。主は一週間後に「平安があなたがたにあるように」と言われて、再び弟子たちに会ってくださいました(ヨハネ20:26)。今も主は、私たちに「平安」をもって会ってくださいます。「平安」とは、何よりも「神との平和」を意味しています。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、神との平和を頂きました(ローマ5:1)。私たちは、どこでも神を霊とまことをもって礼拝することを許されたのです。後に、クリスチャンは週の初めに復活された主イエスを覚えて、主を礼拝するようになりました。私たちも主の復活の命に生かされていること、終わりの日のよみがえりを待ち望みながら毎週日曜日に主を礼拝します。「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(ネヘミヤ8:10)
Ⅱ.私の主、私の神
復活された主イエスは、トマスの言動と心の思いを全て知っておられ(ヨハネ20:25)、彼の疑いを晴らすように復活の姿を示して「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と語られました(ヨハネ20:27)。
トマスは復活の主イエスを見て、その言葉を聞いて「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28)と主を信じました。彼は、主イエスが自分にとってどういうお方なのかを真実に悟ったのです。
私たちは今、御言葉と御霊によって、主イエスの十字架の意味を真に理解させて頂いたのです。主イエスの十字架の身代わりの死は、自分のためであるということ。主の復活は、自分も終わりの日によみがえるというしるしであるということです。主イエスを「私の主。私の神。」と心に迎え入れて、日々、主と共に歩み続けましょう。
Ⅲ.見ないで信じる者は幸いである
主イエスは、主の復活を信じたトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と語られました。見えなくても、信じるのが信仰です。しかし、主はトマスの信仰告白の先に、主の復活の姿を肉眼では見ないけれども、主を信じる人たちの時代が来るということを先取りしておられたと考えることができます。
やがて天に帰られる主イエスの姿は、だれも見ることはできなくなります(使徒1:9)。しかし、主の姿を肉眼で見なくても、御言葉を通し、聖霊によって主を信じ、主との交わりに生き続けることができるようになるのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)。また、私たちは「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1:8)主イエスを見ていなくても、主を信じる者とされたことを感謝しようではありませんか。ハレルヤ!
結 び
トマスは、主イエスの復活の知らせを疑いました。しかし、そんな彼に主イエスは会ってくださり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と語られました。復活の主は、今も私たちに御言葉と御霊によって語りかけてくださっています。主の語りかけを聞いて、主を信じて主に従って歩み続けましょう。