『妨げられない神の救い』
はじめに
本日は、ヨナタンの信仰から、主の救いは何ものによっても妨げられないことをみてまいります。
Ⅰ.信仰による勝利
イスラエルは、ペリシテ軍に対して、武器の面でも兵の数の面でも勝ち目のない戦いに追い込まれていました(Ⅰサムエル13:5-7,19-22)。そのような状況で、ヨナタンは勝利は人の手にはよらないと(Ⅰサムエル14:16)、信仰によって立ち上がりました。主はヨナタンの信仰に目を留められて、勝利を与えられました。
主は、ヨナタンにひとりの道具持ちの若者という励まし手を与え(Ⅰサムエル14:7)、二人で敵を倒す力と知恵を与えられました(Ⅰサムエル14:13-15)。主イエスは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と約束してくださいました。主を信じる者の群れは、二人から構成されます。祈りにおいても(マタイ18:19)、宣教のために派遣されることについても(ルカ10:1)、二人以上が基本です。主イエスの救いを頂いた者が呼び集められた教会で、共に祈り、主のために前進して行く時、主の栄光が表されることを覚えましょう。
Ⅱ.御言葉と聖霊の導きを求めて歩む
サウルは、戦いのなお一層の勝利を願って、主に問い、祭司と話します。しかし、途中でやめて自分勝手な誓いを立ててしまいます(Ⅰサムエル14:18-19)。一見信仰的に見える誓いでしたが、戦いの最中で、民は飢えに苦しみ、悩みます(Ⅰサムエル14:24、29)
この後のサウルは、断食の誓いが守られなかったことについてのさばきを民の声によって変更するなど、主に聞かなかったために、民の声にさえ翻弄され一貫性がありませんでした(Ⅰサムエル14:37-45)。神の知識、御言葉に根ざした熱心でなければ、かえって神の御心を損なうのです(ローマ10:2-3)。自分勝手な思い込みの信仰ではなく、御言葉から正しい知識をいただき、聖霊の導きを求めて歩み続けましょう。
Ⅲ.主の救いを妨げるものはない
サウルは、イスラエルの歴史においては、功績を残した王として評価されています(Ⅰサムエル14:47-52)。しかし、これまでの彼の信仰を見る時、聖書はこの世の評価と神の評価とは、必ずしも一致しないということを教えています。
私たちは、この世の評価で良しとするのではなく、神の前で評価され、永遠に価値が残る生き方こそを目指して歩もうではありませんか。私たちも、サウルのように、毎日様々なことを試み、悪戦苦闘していたとしても、主が共にいてくださらなければ空しい結果に行き着くだけでしょう。私たちは、ヨナタンのように見えるところは勝ち目がないようであっても、「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」と信仰によって立ち上がりましょう。クリスチャンは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、神の子とされ、世に勝利する者とされているのですから。
結 び
ヨナタンはペリシテ人との絶望的な戦いの中で、信仰によって立ち上がりました。さらに、一人の道具持ちが居て、彼らは共に戦い勝利を与えられました。教会は、花婿なる主イエスを待ち望む共同体です。共に霊の戦いの中で、祈り合い励まし合って、主が再び来られる時まで、信仰の歩みを続けさせて頂きましょう。