『ひたむきに前進せよ』
はじめに
本日の聖書から、「神の栄冠」を求めてひたむきに走る信仰者の姿をみます。
Ⅰ.捕らえようと追求している
パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。」(ピリピ3:12)と語ります。主の救いは完全ですが、クリスチャンはこの世ではまだ、主イエスと同じ姿に成長する途上にあります。
主イエスは、永遠の命とは、父なる神と御子イエスとを知ることであると語られました(ヨハネ17:3)。私たちは、主なる神を知的にも、そして聖霊によって霊的にも知って、主イエスの復活の命を実体験する者とされ続けましょう。ぶどうの木についている枝が、豊かな実を結ぶように、私たちも主イエスにとどまり続け、永遠の報いをいただきましょう(ヨハネ15:5)。
Ⅱ.ひたむきに前のものに向かって
パウロは、天の御国を目指し、永遠の報いをいただくために、「ひたむきに前のものに向かって進む」と告げています(ピリピ3:13)。前に向かって進むためには、「うしろのものを忘れ」なければなりません。主と出会う前のパウロは、多くの人間的に誇れるものを持っていました。しかし、主イエスを知って救いを頂いてからは、過去の人間的な誇りは「ちりあくた」だとさえ語っています(ピリピ3:7-8)。
私たちには、忘れてはいけないものと、忘れるべきものがあります。主の恵みや真実、約束など、主が良くしてくださったことは何一つ忘れてはなりません(詩篇103:2)。しかし、人の過去の罪の生活はもちろん、世の知恵や人の経験でさえ、主の御心に適わないのであるなら忘れ、捨てなければなりません。私たちが捕らえようとして主を仰ぎつつ前に向かって進むその先には、主からの「神の栄冠」が待っているのです(ピリピ3:14)。
Ⅲ.主イエスに捕らえられている
パウロは、「神の栄冠」を受けるために、クリスチャンの歩みを競技にたとえて語っています。しかし、信仰の競技は、この世の競技とは異なり、競い合って勝負を決めることではありません。また、頑張って走り抜いた報いとして、神の御国に入れられ、復活の恵みをいただくというものでもありません。主イエスを信じて、主と共に走り続けさせていただくということです。
私たちは、十字架によって全ての事に勝利された主イエスに捕えられたのです。そして、主自らが、私たちと共に走り続けてくださっているのです。私たちの走りがどんなに弱々しく、時には倒れ転んでも、主のみ手は強く確かで、私たちを再び立ち上がらせてくださいます。神の御国と復活の希望を持って、主に依り頼みながら御国を目指してひたすら走り続けましょう。
結 び
私たちクリスチャンは、キリストに捕らえられた者です。主イエスの十字架の救いという偉大な恵みをいただいた私たちがなすべきことはただ一つです。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、主が与えてくださる神の栄冠を得るために、ひたすら主と共に走ることです。