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『明日の心配は無用』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ6:25-34

はじめに

本日の聖書箇所から、主イエスが言われた「あすのための心配は無用です」という言葉をみてまいります。

Ⅰ.私たちを愛する父なる神

「心配」は将来に関わることであり、将来のことについて思い悩むことは、内容は変わっても、いつの時代も同じです。主イエスは、自分の命のことで、また、からだのことで、心配してはいけないと言われました(マタイ6:25)。

主は、その理由を空の鳥、野の花を取り上げて教えられます。すなわち、鳥や野の花は、蒔かず刈り入れることもしないけれども、天の父なる神はそれらを養い、美しく装っていてくださっている。ましてや、鳥や野の花よりも遙かに優れている人のことを忘れることはないと言われたのです(マタイ6:26)。

主イエスが言われた大切な事は、空の鳥や野の花のことではなく、天の父なる神のことです。父なる神は、私たちの救いのために、そのひとり子でさえも惜しまずに世に遣わされました。そのお方が、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないということはありません(ローマ8:32)。主に信頼する者は、決して失望させられることがないのです(Ⅰペテロ2:6)。

Ⅱ.神の国とその義とをまず第一に求めなさい

主イエスは、心配する者たちに対して「信仰の薄い人たち」(マタイ6:30)と語られました。心配事を前にして、思い悩むのは異邦人、すなわち、信仰のない人たちがすることだと言われたのです。しかし、この主の御言葉は恵みと希望の言葉でもあります。なぜなら、信仰が薄い、言い換えるなら、信仰が小さければ大きくして頂くことを求めればよいからです。主に信頼し、求めるならば、主は私たちの信仰を成長させてくださるのです。

主イエスは、ここで単に信仰を求めることではなく、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と語られました。それは、天の父なる神が、神の子とされた者たちに望んでおられることは、単に心配事から解放されるだけではなく、神の御心がこの地において実現することを望む者となることだからです(マタイ6:10)。

神の国と神の義を求める時、私たちの将来について、明日について、心配する必要はないのです。なぜなら、父なる神の御心の実現を求める者に、「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されているからです(マタイ6:33)。御国が来ること、御心が天で行われるように地でも行われるよう祈り続けましょう。

Ⅲ.あすのための心配は無用です

主イエスは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)と語られました。どうすることもできない明日のことで、心を悩まし暗くするなら、主から与えられている「今」という時を無駄にしてしまいます。主は、明日のことはどうでも良いと言われたのではありません。明日という日もまた、主の御手の中にあるからです。神が何とかしてくださるから種を蒔いたり、刈り入れをしなくても良い、紡ぎもしなくてよいのだと言われたのでもありません。私たちは、成すべき事は成さねばなりません。しかし、私たちの為すべき全ては、天の父なる神の御手の中にあるということを忘れてはいけないということを教えてくださっているのです。

私たちは、主に救われて生かされていること、父なる神が私を愛してくださって、ひとり子をさえ与えてくださったことを覚えなければなりません。神の愛と、全能の御手を覚える時、「あすのための心配は無用です」。いかなるものも主イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはないことを覚えましょう(ローマ8:39)。

結 び

天の父なる神は、私たちの命と体のために必要なものをご存じであり、それを与えてくださるお方です。さらには、究極的な問題である死についても解決してくださいました。だから、主なる神に徹底的に信頼し、先ず、神の国とその義とをまず第一に求めるなら、必要なものは、それに加えて与えられると約束してくださいました。私たちはひとり子さえも惜しまずに十字架にわたされた父なる神に全信頼をおいて、今というこの時に、信仰生活を歩み続けてまいりましょう。

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