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『神を畏れる者』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 創世記22:1-19

はじめに

本日の聖書箇所から、主なる神を畏れ、主に全く信頼して歩んだアブラハムの信仰を見ます。

Ⅰ.試練を通して主なる神を知る

主なる神は、アブラハムにひとり子でえあるイサクを「全焼のいけにえ」として主に捧げなさいと命じられます。これは、アブラハムが真実に主を畏れ、主の言葉に聞き従う者であるかどうかを知るための主からの試練でした(創世記22:1-2)。

ここには、五人の人が次々に主イエスの弟子になったことが記されています。彼らは、全く知らない仲ではなく、兄弟や友人という形で関わりのある人々でした。聖書は、福音はこのような人と人とのつながりの中で伝えられていくことを教えています。

主は、私たちの信仰を堅固で確かなものとするために、試練を通されることがあります。それは、主が私たちを愛しておられるからであり、主との交わりをさらに堅く強くするためです(ヘブル12:5-10)。

主は私たち一人ひとりに対して、その人に相応しく関わってくださいます。試練の時こそ、主を仰ぎ見て、ますます主に信頼しようではありませんか。主は真実な方ですから、私たちを耐えられないほどの試練に会わせることはないばかりか、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます(Ⅰコリント10:13)。そして、信仰の訓練を通して「平安な義の実を結ぶ」ようにしてくださることを覚えましょう(ヘブル12:11)。

Ⅱ.主を信じ切ることによってこそ試練を乗り越えられる

アブラハムにとって、息子イサクは主によって与えられた約束の子であり、彼の人生そのものでした。ですから、アブラハムにとって、主の命令は非常な苦悩を伴ったことは明かです。しかし、聖書はアブラハムの主の命令に対する行動と返事(「はい。ここにおります」)に、彼が主に向かって逃げ隠れせずにまっすぐに向き合い、主の前に立ち続ける信仰姿勢を教えています。

主の前に立ち続けるとは、自分が試みの中で主が見えないような状況でも、主は自分をしっかりと見ておられ、全てのことを備えてくださっていると信じることを意味します。アブラハムは、いかなる状況でも主に全幅の信頼を置くという信仰の戦いを戦い抜いたのです。

私たちもこの世で試みにあう時、主が見えなくなり、分からなくなってしまうようなことがあります。「何と不条理な」と思う時こそ、主が私たちを見ておられること、全てのことを備えておられることを信じて、信仰の戦いを勝利して行きましょう。主イエスは私たちをよく見ておられ、ご存じであるからこそ言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)世に勝つ者とは、イエスを主の御子と信じるものです(Ⅰヨハネ5:5)。

Ⅲ.主は試練と同時に脱出の道をも備えておられる

アブラハムは、祭壇の上の息子イサクをほふろうとします。それは、彼が「主には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(ヘブル11:17)と確信していたからでした。それを見た主は、彼に仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが主を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22:12)。

イサクはほふられませんでしたが、アブラハムにとっては、息子はすでに主に捧げられ、主のものとなっていました。このことは、主がアブラハムに、息子をもう一度与えてくださったということです(ヘブル11:19)。そして、主はアブラハムに、息子の代わりに捧げるための雄羊を与えてくださいました(創世記22:13)。 

このことは、父なる神がひとり子イエスを、十字架において捧げるということのひな型です。主イエスは、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。主の十字架によって、私たちは罪を赦され、主の永遠の命に生きるものとされました。父なる神は、私たち全てのために、ひとり子イエスをさえ惜しまずに十字架の死に渡されました。そのお方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか(ローマ8:32)。ですから、私たちは、試練や様々な信仰の戦いの中で、「主の山に備えあり」、「勝利は私のもの」と確信をもって言うことができるのです。

結 び

主イエスは、十字架にかかられる時、イサクがたきぎを背負って山に登ったように、十字架を背負って、ゴルゴタの丘を登られました。父なる神は、アブラハムには「あなたの手を、その子に下してはならない」と言われましたが、神は御子を十字架で死なせました。それは、私たち全ての人の救いのためでした。主がアブラハムに言われた、「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(創世記22:12)という御言葉は、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)という御言葉と重なり合っています。主の備えを信じて、主を畏れて従ってまいりましょう。

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