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『神を信頼し、頼みとせよ』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 エレミヤ17:5-14

はじめに

本日の聖書箇所から、主なる神を信頼することは、何にも勝る幸いであるということを見てまいります。

Ⅰ.祝福の基である主に頼る

主なる神は、預言者エレミヤを通して、神から離れたイスラエルの民に「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」(エレミヤ17:5)と語られます。当時のイスラエルの民は、危機的状況の中で、神よりも自分たちの知恵や力にたよって、救いを得ようとしたのでした。しかし、祝福の基は主にあります。その主から離れるなら、結果として呪い、すなわち永遠の滅びを刈り取ることになるのです。

主イエスは、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と語られました。人は、神に仕えるのか、富に代表される世のものに信頼し仕えるのか、そのどちらでしかないのです。私たちは、全ての祝福の基であり、命の根源である主に仕えようではありませんか。聖書は、「主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む」(詩篇32:10)とあり、いかなる時にも、喜びと感謝を主に捧げることができるようにしてくださると約束しています。私たちは、主なる神にいつも望みを抱き続けましょう(Ⅰテモテ6:17)。

Ⅱ.祝福は主にとどまることによる

預言者は、「祝福」は主が与えるものであると告げます。その祝福を頂く者を、「水のほとりに植わった木のようである」とたとえています(エレミヤ17:7)。主に信頼する者は、豊かな水の流れのほとりに植えられた木のように、尽きることのない豊かな命と祝福を主からいただいて生き、成長するのです。ここで、主に信頼する者には、暑さや日照りがやって来ないとはいっていません。暑さや日照りが来ても、倒れたり枯れてしまうのではなく、その時にこそ、主が共にいてくださり、支え、導いてくださり、葉を茂らせて、豊かな実りを与えてくださると約束しています(エレミヤ17:7-8)。

主イエスは、ご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木」とたとえで語られました。主イエスにとどまるなら、主は私たちの中にとどまってくださり、多くの実を結ぶようにしてくださいます(ヨハネ15:1-5)。私たちは、主イエスの御言葉を心に豊かに蓄え、聖霊に導かれ、御言葉に従って歩んで行きましょう。

Ⅲ.主の祝福を頂いた者として

主は、主の民として契約を結んだイスラエルに対して、彼らの度重なる背信に対しても、常に救いの御手を差し伸べてこられました。それにも関わらず、イスラエルは、主との契約を簡単に破って他の神々に走って行きました。この主に立ち帰ることをしない頑ななイスラエルの姿は、全ての人間の姿でもあります。

エレミヤは、主に対する人の罪の故に、命の根源である主を求めることができなくなってしまっていることを告げます。そして、死に至らせる罪を赦し、解決してくださるのは主だけであることを知って、主に救いを求めます(エレミヤ17:14)。イスラエルの祝福の回復は、救いをもとめる叫びから始まりました。

父なる神は、罪のために呪われた私たち人間を見捨てませんでした。ひとり子イエスをこの世に遣わしてくださり、主イエスは、呪われた罪人と一緒になってこの地上で歩んでくださいました。そればかりではなく、全ての人の罪の呪いを、十字架で完全に引き受けてくださいました(ガラテヤ3:13)。主イエスの十字架の救いによって、全ての人は信仰によって救いを頂き、罪の呪いから完全に解放され、祝福された者とされました。主に祝福された者には、豊かな実りが約束されています(エレミヤ17:8)。豊かな実を結ぶために、主イエスにますます信頼し、この祝福を人々に知らせようではありませんか。

結 び

預言者エレミヤは、苦難と試練の中で、ただ主の御心が成されるようにと祈り願いました。そこで、主なる神だけに頼るべきことを学び、人々に「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」と告げました。主に信頼すること以上に、私たちの平安、安全はないことを覚えましょう。

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