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『神にあって富む』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ルカ12:13-21

はじめに

本日の聖書箇所は、「愚かな金持ちのたとえ話」として知られています。このたとえ話から、神にあって富む者となることの大切さを見てまいります。

Ⅰ.遺産分配の相談

主のたとえ話のきっかけは、群衆の中のひとりが、兄弟との遺産分配について頼んだことです(ルカ12:13)。当時は、ラビと呼ばれる律法の教師たちに、相続などの問題を相談することは珍しくありませんでした。しかし、主はこの人の相談には応じられませんでした(ルカ12:14)。主は遺産を受け取れば解決するという表面的な問題の背後に、全ての人の中に巣くっている「貪欲」を御覧になったからです。

願いや望みを持つことは、悪くはありません。しかし、それらに必要以上に捕らわれてしまうなら、それは貪欲となってしまいます。聖書は、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです」(コロサイ3:5-6)と警告しています。それは、「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15

主イエスが、私たちに与えてくださる真の命は、私たちのこの世での豊かさよりも遙かに素晴らしく、私たちの人生を根底から支え、充実させ、喜びを与えます。それは、死においても、自分の命を安心して神の御手に委ねることができる確かな恵みであることを覚えましょう(ルカ9:24-25)。

Ⅱ.愚かな金持ちのたとえ

人の真の命は、この世のものではなく、神によって在るのです。これを知らせるために、主はたとえ話をされます。ある金持ちが、自分の得た富のために、新しい大きな倉を建て、穀物や財産をしまっておこうとしたのです。そして、自分のたましいに、「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と語ったのです(ルカ12:19)。

一般的に見るなら、この人の取った行動は、用意周到で賢いものです。しかし、神の目には「愚か」だったのです(ルカ12:20)。それは、この人が、「自分のためにたくわえても、神の前に富まな」かった、つまり、命は神からのものであるということを知らなかったからです(ルカ12:21)。

私たちの命は、神から頂いたものであり、私たちは神に生かされているのです。神から頂いた命であるならば、神と共に生きることこそが、本来の人間の姿です。父なる神は、私たちのことを全てご存じで、生きるために必要なことを備えて与えて下さいます(ルカ12:6-7)。主のもとに立ち返り、主を第一とするなら、生きるために必要ないっさいのものは全て添えて与えられることを覚えましょう(マタイ6:33)。

Ⅲ.神の前に富むとは

主イエスが言われる「神の前に富む」とは、究極的には主が与えて下さる永遠の命に生きるということです。主は私たちのために、この世に来てくださり、十字架の贖いによって、私たちを神の前に豊かに富む者としてくださいました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9

主イエスは、私たちのために、御自身という神の富を十字架の上に献げて、私たちを新しい命に生きる者としてくださいました。私たちは、主の豊かな恵み、救いという偉大な富を頂いたのですから、主に感謝して、主の御名を誉めたたえ礼拝しようではありませんか。私たちは礼拝において、神の前に出て、この豊かな富に与るのです。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33

まとめ

神に対して私たちが富む者となるのは、主が私たちにくださった永遠の命を感謝して頂き、主と共に喜んで生きることです。それは、主が備えて下さっている毎週の礼拝において、主イエスと出会い、主の御言葉を聞くことから始まります。私たちはこの世に生きながら、天の御国に属する者です。ですから、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げ」(ルカ12:33)て行こうではありませんか。

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