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『命の言葉について』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ14:1-9

はじめに

本日の聖書箇所から、主イエスに香油を注いだひとりの女の行為から、主に奉仕をする姿、仕える姿勢を見てまいります。

1.主イエスの十字架は父なる神の御心である

これは、過越祭と除酵祭(種を入れないパンの祭り)の二日前の出来事です(マルコ14:1)。過越祭はユダヤの三大祭りの一つで、主がイスラエル民族を守ってくださったことを記念する「命の祭り」ともいえるものです。その「命の祭り」が始まろうとする時に、祭司長や律法学者たちは、主イエスの殺害を計画していたのです。

しかし、主イエスの十字架刑は、この祭りの最中に大勢の群衆が見ている中で行われました。主の十字架は、祭司長、律法学者たちの計画とは全く違った方法で行われました。これは、主イエスの十字架が人の策略や計画によるのではなく、父なる神が定めた救いの計画の成就であるということを示しています。

父なる神の救いの御計画は、世界の基の置かれる前から御子イエス・キリストにあって定められていたことでした(エペソ1:4-5)。真理の御言葉、救いの福音を聞いて信じた者は全て、罪赦され、神の子、御国の世継ぎとされたことを感謝し、主を誉めたたえましょう。

2.ひとりの女の奉仕

主イエスが罪人の救いのために、十字架にいよいよ赴くという時、ひとりの女が、主イエスの頭に非常に高価なナルドの香油を注ぎます。主は、この女の行為について、いかに高価なものを主に捧げたかということではなく、「この女は、自分にできることをしたのです」(マルコ14:8)と語られます。彼女が高価な香油を捧げたのは、主イエスを慕い、仕えるために、自分のなし得る限りのことをした結果でした。

その女の行いを見ていた何人かの者が、憤慨して互いに言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか」(マルコ14:4)。彼らは、この女の行為を、人間的な価値観や思いによって判断してしまい、彼女の行為は無駄で、行き過ぎたことと考えたのです(マルコ14:5)。 

主イエスは、この女の行為を、「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」と受け入れてくださいました(マルコ14:8)。彼女は、主イエスが十字架にかかって死なれることを知っていたわけではないと考えられます。しかし、主は、この行為を聖めて用いてくださったのです。ここに、主に対する私たちの奉仕を、主がどのように受け止めてくださっているかが示されています。人の評価や自分の満足ではなく、主に対して、できる限りの精一杯の奉仕をするなら、主が奉仕をきよめてくださり、「りっぱなこと」として喜んで用いてくださるのです。

3.自分の持っている最高のものを主に捧げよう

主イエスは、この後、十字架で御自身の命を捧げてくだいました。これは究極的に主が私たちに仕えてくださった僕の姿です。罪人のために、御自身の命を捧げることほど無駄に思えることはないでしょう。しかし、主は罪人のために、御自身の命をさえ惜しまないで、救いの御業を成し遂げてくださいました。私たちは主の恵みを知っているからこそ、主の愛に応えて仕えるのです。

香油を注いだ女は、有り余る中から捧げたのではなく、自分のできる精一杯のものを主イエスに捧げたのです。それほどに、主イエスの恵みに感謝し応えずにはいられない体験をしていたからだと考えられます。パウロは、キリストを知ることの素晴らしさのゆえに、いっさいのことを損と思い、これまでのすべてのものを捨てて、キリストに従ったことを告白しています(ピリピ3:8)。聖書は、自分に無い物、自分には不可能なことを行うようには教えてはいません。自ら進んで、力以上に捧げる信仰を賞賛しています(Ⅱコリント8:1-5)。まず、自分にできることから主に奉仕して行きましょう。

まとめ

私たちが主に仕え、奉仕をさせていただくのは、主イエスの十字架の救いを頂いたからです。主御自身が、まず、罪人である私たちにその命を捧げてくださいました。その主の愛に応えようではありませんか。私たちは、主の御心を完全に知ることは出来ません。しかし、主に仕えることのできる恵みを覚えて出来る限りのことをする時に、主がその奉仕を受け入れてくださり、御心のために用いてくださることを覚えましょう。

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