『喜びを与える神』
はじめに
本日は、アブラハムとその妻サラに主が成してくださった御業を通して、主が真実であり、真の喜びを与えてくださるお方であるということを、見てまいります。
1.主の御心を常に第一に求める
アブラハムの信仰の歩みは、彼が75歳の時、主が彼を召して、彼を通して全ての民が祝福されるとの約束を与えられたことから始まります(創世記12:3)。主から与えられたアブラハムへの約束は、彼とその妻サラとの間に与えられる一人の子を通して、多くの子孫が与えられ、その子孫たちによって主の祝福が地上の全ての民に及ぶというものです。
彼らが、主の約束を受けて約10年が経ちましたが、子は与えられませんでした。その間、主は幾度か、アブラハムに励ましを与えられます。「・・・あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(創世記15:4)。さらには、主は彼の子孫は、天の星の数のようになるとも約束してくださいました(創世記15:5)。しかし、アブラハムはサラの提案に従って、サラの女奴隷によってイシュマエルという子をもうけます(創世記16:1-3)。このことは、主の御計画を、人の力によって実現しようという企てでした。しかし、主の時を待たないで、人から出たことを人の力で行うとき、様々な問題が起こります。女奴隷ハガルは主人サラを見下げるようになり、サラは怒りをアブラハムにぶつけ、家庭内に確執が生まれ、問題が山積されて行くのです。
私たちも主の御業を見るために、主を待たなければならないことが多くあることを忘れてはなりません。一見、信仰的に見えることでも、主を中心としない、人から出た計画や行いは、真に御心を全うするものではありません。主を待ち望む者には、主は決してその希望が失われるようなことはなさいません。私たちは、主の約束の御業を見るまで、忍耐が必要です(ヘブル10:36)。私たちは、主との親しい交わりを持って、常に御心を教えていただきながら、主と共に歩みましょう。
2.主は約束されたことを、必ず成し遂げてくださる
サラは、主が約束を成就してくださることを聞いた時、ひそかに笑いました(創世記18:12)。しかし、主なる神は、ひそかに笑ったサラの笑いを、本当の喜びに変えてくださいました(創世記21:6-7)。主は人の目には不可能でも、可能にしてくださる、偉大な神であることを覚えましょう。
イサクが乳離れした日から、それまで表面には表れていなかった大きな問題が露わになります。サラが、女奴隷ハガルの子イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、夫に彼らを追い出すようにと訴えます(創世記21:9-10)。この事は、アブラハムにとって、非常な悩みとなります(創世記21:11)。この件について、主はアブラハムには、イサクから出る者が、彼の子孫と呼ばれるということ、ハガルにはイシュマエルを一つの国民の父とするという約束を再度語られます。主は、主の約束を信じ切ることができずに恐れている者たちに、「悩んではならない」「恐れてはいけない」と励ましてくださいます。
ここに露わになった問題は、アブラハムとサラが主の約束を信じることができなかった弱さ、不信仰、罪の結果によることでした。しかし、主は人の罪とその結果である悲惨をよく御存知の上で、なお御心を成し遂げてくださると共に、私たちを罪による結果から救い出してくださいます。主は約束されたことを、必ず成し遂げてくださるお方であることを覚え、主に全く信頼してまいりましょう。
まとめ
主はアブラハムとサラに、約束を与えられたように、私たち一人一人にも約束を与えておられます。その約束とは、主イエス・キリストによる救いの約束です。父なる神は、ひとり子イエスをこの世に遣わし、十字架の贖いによって、私たちを救ってくださいました。そして、神は主イエスを死者の中から復活させてくださったことによって、この恵みが確かなものであることを私たちに示してくださり、私たちにも、主イエスのように復活と永遠の命を約束してくださいました。私たちはこの約束を信じて、主と共に人生を歩んで行きましょう。