『幼子のように』
はじめに
本日は、主イエスが語られた、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:15)という御言葉を、御一緒に見てまいります。
1.主イエスの憤り
人々が子どもの祝福を願ってイエスのもとに来ましたが、弟子たちは彼らを叱りました。連日大勢の群衆がイエスのもとに押し寄せていたため、弟子たちなりに主イエスに対して配慮したのでしょう。しかし、この弟子たちの配慮は、かえって主イエスの御心に反することでした。
主イエスは、子どもたちをみもとに連れてくることを妨げた弟子たちに憤られます。主イエスがこの世に遣わされたのは、神を求める全ての者に、祝福と恵みを与えるためだからです。その神の恵みと憐れみが最も具体的に示されたのが、主イエスの十字架です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
2.子どものように神の国を受け入れる者
主イエスの憤りから、子どもたちの存在は、主の働きの妨げにはならないことが分かります。それどころか、「神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)とあるように、子どもたちの存在こそが、神の国を指し示しているのです。
主イエスは、神の国に入りたければ、子どもたちの姿に学ぶべきことを教えています。ここでの子どもたちの特徴とは、「人々が子どもたちを、みもとに連れて来た」(マルコ10:13)とあるように、保護者によらなければ主のもとに来ることのできない無力さや弱さのことです。子どもは、差し出すための何ものをも持っていません。そのような何もない者が、何も持たぬままで主に招かれている、それが神の国です。
主イエスは何も持たない、貧しい者、飢えている者の幸いを語られました。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。」(ルカ6:20-21)これは、神の恵みと憐れみなくして生きられないことを知り、ひたすら神に求める者の幸いを教えています。私たちが神の民とされたのは、まったくの神の憐れみによるのです (エペソ2:13)。
主の恵みなくして生きることができないのは、子どもに限ったことではありません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)のです。主が与えてくださる神の恵みは、全ての人が頂くことのできるものです。この主の恵み、救い主なるイエス・キリストを信じて心に迎え入れましょう。
まとめ
親や保護者たちの願いによって連れて来られた子どもたちに対して、主イエスは何の条件もなしに近づいて祝福をされました。この祝福を、幼子から高齢者にいたるあらゆる人々が受けるようにと、父なる神はそのひとり子である主イエスを遣わしてくださいました。誰でも主イエスの御手に抱かれ、祝福を頂くことが許されています。御子イエス・キリストを信じ、主の祝福を幼子のような心で頂きましょう。