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『主を信頼して待つ』

説教:髙橋正人 牧師

はじめに

ダビデは主を畏れる故に、敵であるサウル王の命を奪うことをしませんでした。彼は、主が全てのことをなしてくださると信じ、主に信頼して、主の時を待ちました。本日は、このダビデの信仰を御一緒に見てまいります。

1.ダビデは、常に自分の前に主を置いた

ダビデは、自分を殺害しようとしているサウル王の命を奪う絶好の機会を得ました。実は、この機会は二度目でした。エン・ゲディの洞穴で、ダビデは自分を追って来たサウルを討つ機会を得たのです。この時、ダビデは「主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」と言ってサウルを手にかけませんでした。後でサウルの上着の切れ端を見せて、自分が王に危害を加える者でないことを明らかにし、忠誠心を表します。サウル王は、ダビデの行いに対して涙を流して感謝をしました(Ⅰサムエル24章)。

しかし再び、サウル王はダビデ討伐隊を出します。そして、ここでも、主はサウル王をダビデの手の中にわたします。ダビデは王を生かして、王の枕元にある槍と水差しとを持ち去ります(Ⅰサムエル26:12)。ダビデは、もし自分がサウル王を殺したら、それは主が選ばれた者を否定することであり、それは、主に対する反逆であると知っていたのです。彼は、サウル王の背後におられる主を見ており、裁きを下すのは人ではなく主であるということを信じて、主の手に裁きを委ねました(Ⅰサムエル26:10)。ダビデは常に、自分の前に主を置いていたのです(詩篇16:8)。

ダビデによって、サウルは二度命拾いをしました。それは、ダビデが主を畏れていたと同時に、サウルが悔い改めて、主の前に立ち帰ることを願っていたからでした。聖書は、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(ローマ12:17)と教え、悪に負けるのではなく、善をもって悪に勝つようにと励ましています。主の御心は、罪人が主の前に悔い改めて、主の命を共に生きて行くことです(エゼキエル18:23エゼキエル33:11)。父なる神は、そのひとり子イエスをも惜しまないで世に与えてくださったことを覚え、私たちも主の心を心として、主を証し、主の時を信仰をもって待ち望みましょう。

2.ダビデの道を選び取ろう

ダビデは、三千人もの精鋭に守られて寝ているサウルの「枕もとにある槍と水差し」とを持ち去ります。この出来事の背後には、「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていた」(Ⅰサムエル26:12)とある通り、主の御手がありました。これは、ダビデ自身の命と六百人の部下とその家族を守るためだけではなく、サウルのダビデ殺害を思いとどまらせるためでもあります。すなわち、サウル王も、主に油注がれたダビデ(Ⅰサムエル16:12)に対して手を下して、主に対する罪を犯させないためでした。

サウルはダビデを殺すことを思いとどまり、「ダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行」(Ⅰサムエル26:25)きます。これは、二人がそれぞれ別の道を歩んで行くことを表しています。この後、ダビデとサウルの歩みは全く違った結果となります。主の再臨が近い今の世は、ますます二人のようになっていくでしょう。「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録22:11)私たちは、サウルの道ではなく、ダビデの道を選びとって行く者となろうではありませんか。

まとめ

ダビデは、自分の力でサウルの命を奪うことが出来るにも関わらず、手を下しませんでした。それは、彼が主の御心を最優先とし、いつも自分の前に主を置いていたからです。ダビデは、主が自分に与えてくださっている賜物を最大限用いて、その時々の状況に当たりました。このダビデの信仰姿勢は、彼自身が王となる時にも表われていました。このダビデの歩みは、やがてダビデの家系から生まれる主イエスの歩みの雛形となりました。自分の力で主の御業を勝ち取るのではなく、主を信頼して、主の時を待ち続ける時、主は偉大な業を私たちに与えてくださることを覚えましょう。

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