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『主イエスの捧げもの』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ17:22-27

はじめに

本日の聖書箇所には、エルサレム行きを前にした主イエスと弟子たちの、カペナウムでの最後の出来事が記されています。

1.主イエスの二回目の受難告知

マタイ福音書は、三回にわたって、主イエスが受難の予告をしたことを記しています。ここはその二回目にあたり、主イエスは「人々の手に渡され」て殺され、「三日目によみがえる」ことを自ら告げられます(マタイ17:22-23)。特に、「人々の手に渡され」と「三日目によみがえります」というのは、受け身の言葉で語られました。これは、主イエスの受難と復活は、父なる神の御心であったためです。父なる神は、罪人の救いのためにひとり子をも惜しまずに与えてくださったほどに人間を愛されていることを覚えて、主に感謝し、この救いを信じましょう(ヨハネ3:16)。

主イエスの受難予告を聞いた弟子たちは、当然、非常な動揺を覚えます。弟子たちは、主の復活を、まだ理解できなかったからです。主イエスの十字架は、世の目には絶望的な、愚かしく思えるものでしかありません。しかし、信仰の目を通して見る時、神の罪人を救うための偉大な力であり、御業であるということを知らされます(Ⅰコリント1:18)。主の御業は悲しみや失望で終わることは決してありません。

主イエスは、私たちがこの世にあって患難があることを御存知です。その上で、私たちに平安を与えてくださり、勇気を出して主を信じ続けるように祈ってくださいました(ヨハネ16:33)。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)世に勝つ者、それは私たちキリストを信じる者です。

2.つまづきを与えないために

宮の納入金を集める人たちが、ペテロの所に来たことを契機に、主イエスは「宮の納入金」のことを語られます。「宮の納入金」とは、当時、エルサレム神殿に納める神殿税のことで、罪の贖いにあずかるためのもの、すなわち、救いに関わるものでした(出エジプト30:11-16)。主イエスは世の王のたとえを用いて、王の子どもたちは納税の義務はないと言われます(マタイ17:25-26)。これは、主イエスと主を信じる者たち全てが、神の子とされるゆえに、神殿税の納入義務はないということです。主イエス御自身が十字架の贖いを完成され、私たちの罪のために支払わなければならない代価を御自身の命をもって買い戻してくださったからです。主イエスにあっては、もはや神殿も、神殿税も必要がないのです。

その上で、主イエスは神殿税を集める人々をつまずかせないようにと、ペテロを釣りに行かせて、最初に釣れた魚の口にスタテル一枚が見つかることを語られます。それを、イエスとペテロの税とするようにと言われます(マタイ17:27)。主イエスは養い主として、魚に代表される日毎の糧を与える方であると同時に、永遠の命のための贖いをも備えてくださる方であることを示されたのです。主イエスが捧げてくださった御自身の命によって、私たちは霊と肉において生かされるものとされていることを覚え、主に感謝をいたしましょう。

まとめ

ガリラヤにおける最後の奇跡を、主イエスはペテロに釣りをすることで体験させました。それは、ペテロが一人だけで体験したものですが、私たち一人一人にも与えられることです。すなわち、主イエスは私たちの命のために、十字架の贖いを完成してくださいました。そればかりでなく、この世での命のために必要なものをも備えてくださるお方であるということです。主は私たちのために、御自身の命を捧げてくださったのですから、私たちはその主の愛に応えて、自らを生きた聖なる供え物として主に捧げて行きましょう。

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