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『いのちを与えるキリスト』

説教:髙橋正人 牧師

はじめに

マルコ福音書は16章からなっていますが、主イエスの十字架と復活については10章から最後の章に至るまでの6章を割いて記しています。それほど、キリストの苦難と死、復活が私たちにとって大事なことだからです。本日は、エルサレムへ向かう途中で、二人の弟子が主に願ったことへの主の答えから、キリストの十字架の意味をみてまいります。

1.先頭を進んで行かれるキリスト

主イエスは、自分が十字架にかかる時が来たことを知り、エルサレムに向かって、毅然として先頭を進んで行かれます。弟子たちは、これまでとは全く違う主の姿を見て驚きと恐れを抱きます(マルコ10:32)。主は、十字架だけが全ての人間を罪から救う唯一の道であることを知っており、その十字架に向かって突き進まれたのです。

キリストを信じる者とは、父なる神の御心を成し遂げようと、まっしぐらに十字架に突き進んでいった主に従って生きる者です。しかし、主の弟子たちのように、主イエスに従っているつもりで、自分が先頭に立って進んでいるということはないでしょうか。自分が主人になって、主イエスを自分の願い通りの方にしてしまい、私の後から来てくださいということになってはいないでしょうか。私たちは、常に主に先頭になっていただき、主に従う歩みをさせていただきましょう。主イエスの後に従って行く以上に、幸いはないことを覚えましょう。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8

2.仕える者となられたキリスト

エルサレムへ行く途中で、主イエスは三回目の受難予告を弟子たちにします。これまでと同様、弟子たちは主イエスの受難について理解できませんでした。そればかりか、弟子たちのうちのヤコブとヨハネは、主が栄光を受ける時、一人を右に、もう一人を左に座らせてくださいと願います(マルコ10:37)。二人が願ったことは、他の弟子たちも望んでいたことでもありました(マルコ10:41)。彼らが考えていた栄光とは、これから主が十字架と復活を通して受けられる栄光とはかけ離れているものでした。

主は、弟子たちに神の栄光の座につく為に必要なことを語られます。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:43-44)まさに、主御自身が人に仕えるため、また贖いの代価として、十字架で御自分の命を与えるために世に来たことを告げられたのです(マルコ10:45)救い主の姿は、弟子たちが抱いていた支配者のそれとは全くかけ離れたものでした。

人と同じ姿をとって世に来られた主イエスは、徹底的に人に仕え、自分を卑しくし、最後には十字架で罪人たちのために御自身の命を与えてくださいました(ピリピ2:6-8)。この主イエスの十字架によって、私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を与えらました。私たちはこの主イエスに倣う者として、主に従ってまいりましょう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)。

まとめ

主イエスのこの地上での生涯は、人々に仕えられるためではなく、仕えるためのものでした。また、人々から受けることよりも与えることに専念された主イエスは、父なる神からの恵みや祝福を与えて、与え尽くして、ついには十字架で御自身の命さえも罪人に与えてくださいました。今、私たちが生かされているのは、主が罪人である私たちに仕えてくださったことによることを覚えましょう。そして、主に従う者として、自分自身を生きた聖なる供え物として捧げてまいりましょう。

私たちにできることは落ち穂拾いのような小さなことかもしれまん。しかし、主にあっては、それが祝福の第一歩となることを覚え、できる小さなことからさせていただきましょう。私たちが主に信頼して、信仰をもって一歩踏み出す時、私たちの知らないところで、主はあらゆる必要を備えてくださっていることを覚えましょう。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8

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