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『しるしを求めず信じる』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ12:38-42

はじめに

律法学者やパリサイ人たちは、数々の力ある主イエスの業や奇跡を見てきたにも関わらず、主イエスが救い主であることの証拠として「しるし」を求めます。主イエスは、「しるし」はすでに与えられていること、そして、最大のしるしは御自身の十字架と復活であることを示されました。

1.信仰へと導くのは、しるしではなく聖霊である

主イエスは、律法学者やパリサイ人たちが「しるし」を求めた心の動機を、鋭く見抜かれました(マタイ12:39)。それは、イエスが救い主か否かを判断するのは、自分たちであるという高慢な態度でした。彼らは、主イエスを信じるためではなく、むしろ、信じないための口実として「しるし」を求めたのです。

主イエスは、地上で活動されていた時、多くの奇跡や力ある神の恵みの業を行われました。しかし、それらの「しるし」をもって、御自分が救い主であることを示されませんでした。むしろ偉大な主の御業を体験した多くの人々に対して、「だれにも言ってはならない」と口止めされたほどです。

人が主を信じるために必要なことは、主に対する魂の奥底からの悔い改めです。主の御言葉と聖霊の導きによって、自分の罪を示され、悔い改めて救いを求めることです。この悔い改めは、霊の目が開かれることによって理解させていただくものであって、客観的な「しるし」によるのではないのです(Ⅰコリント12:3)。

2.しるしを見ないで主を信じた人々

主イエスは、しるしを見ないで主を信じた旧約聖書の人々について語ります。一つは、ヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人々、もう一つは、ソロモンの知恵を聞くために地の果てからやってきた南の女王です。

ヨナはニネベの人々に対して、何のしるしも奇跡も行いませんでした。しかし、ヨナの宣教によって、ニネベの人々の中に悔い改めが起こりました。南の女王は(Ⅰ列王記10章、Ⅱ歴代誌9章)、当時、賢人として名高いイスラエルの王ソロモンから「神の知恵の言葉」を聞きたいと願い、地の果てから旅をしてやって来ました。ニネベの人々にしても、南の女王にしても、彼らは「しるし」ではなく、御言葉によって真の神を知ったのです。

主イエスは、ヨナよりも、ソロモンよりもはるかに優れたお方であり、真の神ご自身です。主イエスは、今も聖霊によって、御言葉を通して私たち一人ひとりに語ってくださっています。「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1:21

3.最大のしるしは主イエスの十字架と復活

主イエスは御自身が救い主であるということについて、預言者ヨナのことを用いて語られます(マタイ12:40)。「ヨナのしるし」とは、主イエスが十字架で死なれた後、墓に葬られ、三日目に復活されることです。この主イエスの十字架と復活こそ、主が私たちに与えてくださった最高のしるしです。この「しるし」を信じる時、私たちは「ニネベの人々」や「南の女王」にはるかに勝る救いの確信をもって人生を生きることができるのです。

主イエスは、御自身の復活を疑う弟子のトマスに対して、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)と語られました。私たちが、イエスの十字架と復活のしるしを深く心に受け止めて信じる時、見ないで主を信じるという幸いな歩みの中に生かされるばかりではなく、人知をはるかに越えたキリストの愛を知り、主ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされることを、心から確信できるようになります(エペソ3:18-19)。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1:8

まとめ

主イエスの十字架こそが、私たちに対する父なる神の愛のしるしです。主イエスが十字架で死んでくださり、三日目に死者の中からよみがえられたことは、私たちクリスチャンも、主イエスが再臨される時に新しい命と体をもって復活するという確かな希望のしるしです。主は私たちに、御自身が救い主であるということをすでに示してくださっています。私たちは、しるしを見なくても、主イエス・キリストの十字架の贖いというしるしを信じて、主の愛を受け入れましょう。

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