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『開かれた霊の目』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 Ⅱ列王記6:8-22

はじめに

私たちは、目に見えるこの世で生活しています。しかし、目には見えない霊の世界の中にも生きていることを聖書は教えています。本日は、主がなさる御業を信仰によって見ることの大切さをご一緒に見てまいります。

1.神の人エリシャ

アラムの王は、北イスラエルと戦うために、家来たちと周到な戦略を立てました。しかし、アラム軍の作戦は、ことごとくイスラエル軍に知られていて、戦いに勝利することはできませんでした(Ⅱ列王記6:8-10)。アラムの王は、自分たちの中にスパイがいると疑い、激怒します。

ひとりの家来が、アラム王が語ることすべてを、イスラエルの王に教えている者がおり、それは預言者エリシャであること教えました(Ⅱ列王記6:12)。このことは、エリシャに物事を見通す超能力のようなものがあったということではありません。エリシャは、どこまでも主の預言者として、神の御言葉をイスラエルの王に告げたのです。その結果、不信のイスラエルであっても常に顧みられる主が、イスラエルを守られたのでした。

エリシャは「神の人」と呼ばれていましたが、私たちも御言葉に聞き従うなら、神の人なのです。 私たちは聖書を通して、また御言葉の説き明かしを通して、主の言葉を聞き、主の御心を知ることができます。神のことばは生きていて、力があり、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)。

2.主によって霊の目を開いていただく

エリシャがドタンという町に居ることを知ったアラムの王は、夜のうちに軍隊を町に送ります。朝になって、エリシャの召使いが見ると、アラムの大軍勢が町を包囲しており、うろたえてしまいました。するとエリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(Ⅱ列王記6:16)と言って、召使いの目が開かれるようにと主に祈りました。目が開かれた召使いは、神の軍勢がエリシャを取り巻いて山に満ちているのを知りました。

私たちは、肉の目で状況を見る時、恐れや不安に襲われるでしょう。しかし、エリシャの召使いのように、主によって霊の目を開いていただく時、万軍の主の助けと導きを知ることができるのです。主イエスは「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6:30)と語られましたが、私たちが信仰の目を持つ時、主の完全な守りと豊かな恵みをいただいていることを知るのです。

3.信仰の目で主を見上げ、主に期待する

私たちは、常に目に見える事だけで全てのことを判断しがちです。しかし、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)と聖書は教えています。肉の目で見えるものだけが私たちの生活を支配しているのではないことを覚えましょう。

私たちの信じる主は、天地と全てのものを創造されたお方です。肉の目では主を見ることはできないでしょう。しかし、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」のです(ローマ1:20)。

私たちは、信仰によって、この世界が神のことばで造られ、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです(ヘブル11:3)。信仰による目をもって、主の業を見させていただきましょう。

まとめ

主イエスが見せてくださるヴィジョンは、この世の如何なるものにも遥かにまさって私たちを安心させ、平安を与えます。信仰の目をもって見る時、主が私たちを豊かな恵みと命に溢れさせてくださっていることを知るのです。私たちクリスチャンは、御霊のことをわきまえる恵みを与えられています(Ⅰコリント2:14)。信仰の目をもって、見えない主をいつも仰ぎましょう。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1:8

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