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『主の御名によって来られる方』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ヨハネ12:12-19

はじめに

本日より受難週に入ります。主イエスが復活される前に歩まれた十字架への苦難の道を覚える一週間としてまいりましょう。今朝の聖書箇所は、主イエスが復活される一週間前の出来事、すなわち、「棕櫚(しゅろ)の主日」と呼ばれる日のことが記されています。

1.ろばの子に乗って来られた救いの王

主イエスがエルサレムに入られるとき、過越の祭りに来ていた大勢の人々が「しゅろの木の枝を取って」歓迎をしました。人々が主イエスを迎えたのは、このイエスこそが自分たちをローマ帝国の支配から解放するイスラエルの王であると考えたからです。

主イエスは、「ろばの子を見つけて、それに乗られました」。これは、主が旧約聖書の預言の通り、平和の王として来るべきお方であることを示すためであり(ゼカリヤ9:9)、人々が望むような軍事的にユダヤの民を解放する王ではないことを示すためでした。

主の弟子たちさえも、「イエスが栄光を受けられる」(ヨハネ12:16)までは、この主の行動を理解することはできませんでした。主イエスがこの地上に王として来られたのは、力によって人々の上に君臨したり、武力をもって諸国を制圧する王として来られたのではありません。むしろ、権力や力をもって他者を圧倒するような人間的な支配を終わらせるために来られ、人間を罪から解放し、真の神との平和に生きる者とするために来られたのです(ゼカリヤ9:10)。

主イエスを乗せたろばの子は、マルコ福音書11章によると、「主がお入用なのです」という御言葉をもって連れて来られました。私たちも主イエスによって見出され、主の御用のために、主イエスをお乗せする者とされました。人々はろばの子には全く注目せず、主イエスを見て歓迎しました。注目されるべきは、私たち自身ではなく、主イエス・キリストです。

2.苦難のしもべ、主イエス

主イエスを「ホサナ」と叫んでエルサレムに迎えた群衆は、この六日後に「十字架につけろ」と叫び、ののしりながら、主を十字架につけました。人々は、主イエスを歓待したように見えますが、実際は、自分たちの考えるとおりの救いを実現する王を期待していたのです。主イエスが、自分たちの期待に添う王でなければ、不要として十字架にかけたのです。ここに、私たち人間の罪が表れています。自分の思い通りになる神でなければならない、私の考えを実現してくれるのが神だとする高慢です。

すべての主権は主にあります。主が定めたときに、主の方法で御業をなしてくださることを覚えましょう。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者3:11)。

主イエスは、私たちの罪の真っ直中に来てくださり、十字架にかかってくださいました。この十字架に、私たち人間に対する神の愛と、へりくだりが示されています。主イエスが「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(ピリピ2:8)ゆえに、私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命をいただことを感謝してまいりましょう。愚かとも見える十字架こそが、罪人である私たちを救う唯一の道であることを覚えましょう。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

まとめ

棕櫚の葉をかざす人々の中で、ろばの子に乗ってエルサレムに入られた主イエスの姿は、旧約聖書が預言した、「主の御名によって来られた方」の姿そのものです。その主の姿は、この世の支配者となって君臨しようとする世の人々が期待した者の姿とは全く異なっていました。主イエスに失望した人々は、主を十字架にかけました。しかし、この十字架によって、私たちは罪を贖われ、まことの救いの恵みを与えられたのです。人間が求め考えるような栄光とはほど遠い救い主の姿の中に、この世の知恵を超えた全能の神による救いが示されています。この受難週、私たちはキリストの苦難が私たちの救いのためであったことを覚え、主の救いの御業に感謝するときとしましょう。

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