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『初めの愛に立ち返る』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 黙示録2:1-8

はじめに

ヨハネは、主から「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ」(黙示録1:19)と命じられました。今朝は、その中で、「今ある事」として書かれた、七つの教会に送られた手紙に記された事柄の中で、特に、エペソに宛てて書かれたことについてご一緒にみてまいります。

1.主は、聖徒の忍耐をご存じである

黙示録2章と3章には、七つの教会に宛てて書かれた事が記されています。これらの使信は、あらゆる時代の教会に対して語られたメッセージとして受け取ることがきるものです。

主イエスは、七つの教会すべての状況をご存じであることを語っておられます。エペソの教会では、悪い者たち、偽使徒たちをためして、その偽りを見抜いたこと、また、主イエスのために堪え忍んで疲れ果てたことがないことを、主がご存じであることが分かります。主の前には、良いことも悪いことも隠しおおせるものではなく、主はすべてのことをご存じです(ヘブル4:13

主イエスを信じる信仰に生きる時、主のために働く時、そこに戦いや労苦が伴うことが多くあります。しかし、それらすべてのことを主はご存じであり、私たちの労苦が、主にあってむだでないことをもうひとたび覚えましょう(Ⅰコリント15:58)。

2.エペソ教会が非難されたこと

エペソの教会は、教会としての働きを成し、教理的にも健全で、異端からの教えにも惑わされることのない教会でした。しかし、いつの間にか「愛」を忘れてしまっていました。働きや主に対する知識においてはとても熱心で燃えてはいましたが、主イエスを愛するという心が冷えてしまっていたのです。

私たちは、どうでしょうか。信仰生活が長くなり、主に仕えることが多くなるにつれて、主を知る知識が増し加わり、働きや奉仕も熟練して行きます。しかし、「主のために」、「主に喜ばれるために」という「愛」が無くなっているなら、私たちも主から非難を受けることになるでしょう。私たちは、「初めの愛」から離れてはなりません。いつも主イエスの十字架の苦難のゆえに、今あることを覚えましょう(ガラテヤ2:8)。

3.私たちを愛する主は、「初めの愛」に立ち返ることを求めておられる

エペソの教会は、主から「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と非難され、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示録2:5)と叱責されました。「初めの愛」とはどのような愛でしょうか。初代教会時代のクリスチャンたちは、主の愛に満たされて「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれて」(使徒2:46-47)いました。また、主を信じる真剣さと熱意に満たされ、主を恐れかしこんでいました(使徒9:31)。彼らは主の愛によって互いに愛し合い、主に仕えていたので、激しい迫害にもかかわらず、主イエスを信じる信仰を守り抜いたのです。

主が教会を非難され、叱責されるのは、主の燃えるような愛から出ていることです。聖書に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:6)とある通りです。懲らしめは主の愛のしるしです。もし私たちが、「初めの愛」を忘れているのなら、もう一度主の前に「悔い改めて、初めの行い」(黙示録2:5)に立ち返ろうではありませんか。

まとめ

私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死によって、永遠の裁きから救われ、神の子とされ永遠の命をいただきました。私たちは、キリストの熱い愛に心を打たれ、その愛に応えるために、主に従う者とされました。もし、心が「霊に燃え、主に仕え」ていないならば、主の前にへりくだり、悔い改めて「初めの愛」に立ち返らせていただきましょう。主の前に悔い改めるなら、主は聖霊によって、霊に燃え、主の愛に中に生きる事が出来るようにしてくださいます。

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