『再び来られる主イエス』
はじめに
救い主の来臨は、二つの形で成就することが新約聖書に示されています。一つは、クリスマスで、私たち人間と同じになられた御子イエスが、十字架を通して贖いの御業を完成してくださったことです。これは、およそ二千年前に成就しました。もう一つは、主を待ち望んでいるキリスト者全ての救いのために、再び主イエスが世に来られることです。このキリストの再臨は、これから起こる主の約束です。今朝は、このキリストの再臨についてご一緒に見てまいります。
1. 主イエスの再臨の事実
十字架の贖いを完成されて後、主イエスは三日目に死人の中からよみがえられ、弟子たちをはじめとして、多くの人々の前に現われ、ある時には五百人以上の人が集まった所にも現われてくださいました(Ⅰコリント15:6)。その後、多くの人々が見ている中でオリーブ山から父なる神の御元に帰って行かれました(使徒1:11-12)。主イエスが昇天される時、白い衣を着た二人が、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)と、弟子たちに告げました。
主イエスが約束された再臨について、それがいつであるかは明らかにされていません。主イエスは、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイ24:36)と述べておられます。しかし、再臨の前兆や、しるしについては語られています(マタイ24:3-14,34)。聖書中には、キリスト再臨の預言は、クリスマス(キリスト誕生)の預言のおよそ八倍にわたり記されています。私たちキリスト者は、主の御降誕をお祝いする以上に、主イエスの再臨を待ち望む者として、目と心とを配って、いつ主が来られても良いように備えてまいりましょう。
2.再臨の約束に生きたテサロニケの教会
私たちキリスト者の救いとは、「永遠の命が与えられること」であると、一言でいうことができます(ヨハネ3:16)。私たちは救われるために、最初に、御言葉と御霊によって罪を示され、それを悔い改め、主イエスを救い主と信じなければなりません。主イエスを信じると、キリストがその人の内に住み、新しい命によって生きる者とされます。そこから、クリスチャンの新しい生き方が始まります。苦難の中でも、聖霊による喜びをもって生きることができるのです。テサロニケ教会のクリスチャンたちは非常に厳しい迫害や困難の中にありましたが、それらのものを主イエスのために受けているものとして喜び、堪え忍びながら、なおも福音を語り続け、それが全ての信者の模範となるまでになっていました(Ⅰテサロニケ1:6-8)。
なぜそのようにできたのでしょうか。それは、テサロニケ教会の人々は、キリストの再臨に対する望みを持って、生き生きとした信仰をもっていたからです(Ⅰテサロニケ1:10)。再臨信仰に燃やされ、大きな望みを持っていたので、テサロニケのクリスチャンたちは、多くの患難や誘惑を受けていても、信仰の戦いに勝利を得ていたのです。
主イエスが再び世に来られるとき、この世は裁かれます。主のこの世に対する裁きは、必ず行われます。しかし、主はイエス・キリストを信じる者を救って下さいます。そして、私たちを迎えに再び来て下さるのです。私たちは、私たちを愛して下さるキリストを、テサロニケの聖徒たちと同様に待ち望む者でありましょう。また、私たちは「昼の者」(Ⅰテサロニケ5:8)として、主イエスが「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)と言われたように、主のわざにますます励んでまいりましょう。
まとめ
聖書は、主イエスについて、二千年前に「すでに来られた方」であり、同時に「再び来られる方」として語っています。全てのクリスチャンたちは、主が再び来られることを待ち望んでいます。私たちは、主イエスがこの世に来てくださったことを感謝すると同時に、再び王の王として来られる主イエスを待ち望み、いつ主が来られても良いように備えてまいりましょう。この世では苦しみがありますが、私たちはこの永遠のいのちの希望をもって互いに励まし合い、神の国を目指していきましょう。「5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(Ⅰテサロニケ5:10)
5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。 私たちはさまざまな苦難や困難の中にあっても、その時には全ての苦しみから解放される真の勝利がやってくるのです(イザヤ25:8、ホセア13:14)。