礼拝説教

礼拝メッセージ

ホーム > 礼拝説教:2011年礼拝メッセージ

『神にある幼子』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ10:13-16

はじめに

この箇所は、主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」と言われて、子どもたちを祝福された事が記されています。神の国にふさわしい者とは誰なのか、一緒に見てまいりましょう。

1. 子どもたちが主の所に来るのを妨げた弟子たち

主イエスは、十字架にかかるために、弟子たちと一緒にエルサレムへと向かう途上にありました。そのような時に、子どもたちを祝福してくださいという人々がやってきました(マルコ10:13)。群衆が次々と主イエスに押し寄せてくる中、子どもに関わっている時間は主イエスにはないと配慮したのでしょうか、「弟子たちは彼らをしかった」(マルコ10:13)のです。

主イエスはそれを見て憤られ、弟子たちに言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)主イエスが、子どもたちが御自身のところに来るのを許したのは、子どもたちが次世代を担う人になるからとか、世の役に立つ者になるからという理由ではなく、子どもを一人の人格、魂として受け入れておられたからです。

弟子たちの配慮は、主イエスへの彼らなりの善意から出たものです。しかし、時として人間的な配慮は、主が望まれることの妨げになることがあります。配慮することは必要です、しかし、主のもとに来ることを妨げるような配慮もあるのです。そのような配慮は、人間的なものであって、主イエスが祝福を与えようとしておられる邪魔になることを覚えましょう。私たちは、この点においても御霊に導かれる必要がおおいにあります。

2.子どものように神の国を受け入れる

主イエスは子どもたちを呼び寄せて、「神の国は、このような者たちのものです」と言われました。神の国を知るには、私たちは子どもたちの姿に学ぶべきなのです。「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。子どものように純粋な心、素直な心を持ちましょうということではありません。子ども特有の、純粋さや素直さはあります。しかし、人は生まれたときから罪を持っており(ローマ3:10)、子どもであってもそれは例外ではありません。

主イエスの言う「子どものように」とは、子どもの無力さのことです。子どもは、親の助けなしで、大人の助けなしでは生きて行くことができません。それと同じように、神の救いのために、何も差し出すことのできない、何も持っていない者が、神の救いの恵みを信仰によっていただく、それが神の国です。神の国では、そのような者こそが、神の救いに与るのです。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20)。

私たちは、主が用意してくださっている救い、豊かな恵みや祝福を、子どものように単純に、信仰によっていただこうではありませんか。

まとめ

主イエスの周りにいたパリサイ人たちは、自分たちこそは神の国を受け継ぐ者だと自負していました。また、小さい頃から律法を守ってきた富める青年は、主イエスに、永遠の命を受けるたには何をすればよいかと問いました(マルコ10:17-22)。彼らに代表される私たち人間に共通している考えは、自分の持っているものに頼って生きていこうとする態度です。しかし、親に頼る子どものように、主の恵み無くして生きていくことはできないと、主に寄り頼む者を、主は神の国の支配の内に入れてくださるのです。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:15

このページのトップへ

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

神召キリスト教会

Copyright (C) Shinsho Church. All Rights Reserved.
〒114-0023 東京都北区滝野川 6-64-9
最寄り駅:JR板橋駅東口から3分/都営三田線新板橋駅から6分