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『神の時とあなたの時』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ヨハネ7:1-13

はじめに

ここでは、仮庵の祭の中で起こった出来事を記しています。主イエスとその兄弟たちとの話し合いから、主が言われた「わたしの時」について、一緒にみてまいります。

1. 御父の「時」に従った主イエスに倣う

主イエスの兄弟たちは、多くの人々が集まる仮庵の祭りについて、自分たちの兄が自身の事を現す絶好の「時」と考えました(ヨハネ7:4)。兄弟たちは、主イエスの名が知れることによって、自分たちもその恩恵に与り、この世における成功や名声を得られるかもしれないと考えたのでしょう。しかし主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない」と言われました。

主イエスの一番の関心事は、「自分を遣わした方」(ヨハネ7:18)、すなわち、父なる神の御心を知って、それを行うことでした。主イエスの「時」とは、父なる神の御心が私たちに明らかにされる「特別な時」のことで、主イエスが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださることです。

私たちの一番の関心事は何でしょうか。自分自身の関心事や願いがかなえられることを脇に置いて、主を求め、主の時に委ねる者は、揺り動かされることはありません。主をいつも自分の前に置いたダビデ王は、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」(詩篇62:5)と告白し、生涯主と共に歩みました。ダビデは弱さや欠点がありましたが、彼の関心事は、いつでも主の事柄でした。主イエス御自身が「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と主を第一にして歩む者の幸いを教えています。

2.ご自分の民に憎まれた主イエス

主イエスが御自身の「時」について語られた後、「世が、わたしを憎んでいる」(ヨハネ7:7)と言われました。その理由について、主は「わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです」と語られました。世とは、私たち罪人のことです。人間は罪ゆえに、主が賜る愛や救いを拒否して、自分たちの思いのままに生きようとします。主イエスを信じるということは、これまでの生き方とは全く違って、自分の心の王座に主イエスを迎えることです。自分のこれまでの罪の生活を捨てたくない者は、主イエスが疎ましく、ついには主を憎むのです。

世は主イエスを憎み、拒絶しました。ですから、主を信じる者は、主の故に迫害を受けたり、拒否されることがあります。主イエスは、主のために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるときには、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(マタイ5:12)と言われます。

現代の日本においては、初代教会が体験したような厳しい迫害はないかもしれません。しかし、私たちがキリスト者として生き、証しをするときに、無関心や、やんわりとした拒絶や嫌悪、軋轢を経験するのではないでしょうか。どのような反応が返ってきたとしても、だからこそ、主が言われたように、私たちは「御国の民」とされていることを喜びましょう。また、どのような時でも忍耐しつつ、主の時を待ち望み、主を証しし続けましょう。私たちも救われる以前は主を拒絶し、主に対して無関心な者でした。しかし、主は御自身を信じ受け入れ、信じた者に神の子となる特権を与えてくださいました(ヨハネ1:12)。私たちの周囲に、この主の救いの恵みを受ける人が必ずいるのです。

まとめ

主イエスは、地上での歩みの中で、さまざまな誤解や非難に直面されました。私たちの信仰生活の歩みの中でも、同じ体験をすることが多くあります。しかし、主イエスが父なる神の御心に全く従って「時」を待たれたように、私たちも主に倣って「主の時」を待ち望んで歩んでまいりましょう。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道者3:1)私たちが主を信じ続けて共に歩むとき、「主の時」が来たなら豊かな実を結ばせていただけることを覚えましょう(詩篇1:3)。

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