『見よ、わたしは新しいことをする』
人は回顧主義に陥りやすいもので、時には過去至上主義の過ちをする。青年は未来に生き、壮年は現代に生き、老人は過去に生きると言われる。預言者イザヤが「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな」と言っているように信仰者はつねに未来を見つめて生きるべきである。イザヤが言う「先の事」、「昔の事」とはイスラエル人の信仰のルーツである出エジプトを指していることは明白であり、彼らは出エジプトをゴールのように考えていた。しかし、出エジプトはゴールではなくスタートであった。
Ⅰ. 失うことは得ること
イザヤの預言者としての再召命は、彼の身近にあって、もっとも尊敬し、信頼していたウジヤ王の死に始まった。ウジヤ王はⅡ歴代誌26:1-15に見るように多くの業績を残した偉大なユダの王であった。イザヤはウジヤを失ったことを通して神の前に出た。そしてそのとき、主の栄光の御姿 ヨハネ12:41を見たのであった。私たちがこの地上で自己を含めて、何か頼るものがある間は、新しいことは起こらない。イザヤは見えるウジヤを失ったが、見えない王を見ることが出来た。何事もゼロから始まることを教えられる。パウロも自分の持つすべてを失ったとき、キリストの豊かさに与かったのである。ピリピ3:7,8
Ⅱ. 解放を阻む要素
イザヤ書の後半、40章から66章までのテーマは「慰め」であり、それはらは「バビロンからの解放による慰め」40~48章「メシヤの来臨による慰め」49~57章「キリストの再臨による慰め」58~66章のみっつに区分されている。テキストの43章は第二区分で扱われているので、「解放」が中心課題である。イスラエルの民が出エジプトにこだわり、固守していたことから解放されなければ、次の段階に進むことは出来なかった。そこから解放されるとき、無限の世界が広がるのである。しかし、解放を阻むものがある。エジプトに降された禍害の中でパロはモーセの申し入れを拒否し続けるが、禍害が起こるるたびに妥協している。これらは現代も信仰者(求道者)に対して迫るサタンの手法である。
Ⅲ. 期待(充電)する
神は「見よ、わたしは新しいことをする」と言われる。彼らの前にあったのは、出エジプトにまさる「バビロンからの解放」であり、それはペルシャ王クロスによって現実となるが、さらにそれよりも偉大な、キリストによって成就された「人類の罪の贖い」である。 そして今、終末に生きる私たちが待ち望むのは「キリストの再臨」が残されている。これらのことから「新しいこと」とはイザヤ書の後半の三つのテーマを指していることがわかる。まさに現代こそ、再臨直前の時代であることを思わずにいられない。 聖霊によらなければ何も出来ないのが私たちである。聖霊による能力の充電が必要である。神は私たちに大いなる事を備えておられる。パウロは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」Ⅰコリント2:9 を神は備えてくださっている。