『神の知恵、十字架の言葉』
説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 Ⅰコリント1:18-25
「十字架のことば」は、人に救いを与える神の知恵であり力です(Ⅰコリント1:18)。今朝、人を生かす神の言葉について見てまいります。
Ⅰ.愚かと見える十字架の言葉
- コリントの教会では、人間的な知恵や知識により頼んでしまったために、教会の中に混乱が起こっていました。パウロは、主イエスから目を離さず、「十字架のことば」を信じることこそが全ての混乱の解決であると語ります。
- 主イエスが語られた言葉を見る時、この世の考えとは全く逆のことを言っており、一見すると愚かに思えます。例えば、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)しかし、主が私たちのためにご自分の命を十字架で捨てられたことによって、私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を賜わり、神の愛を知ることができるようにしていただいたのです(Ⅰヨハネ3:16)。人の目には愚かと思える十字架の言葉にこそ、真実に人を生かす知恵があり、私たちを永遠の命へと至らせる神の力があるのです。私たちはどこまでもこの十字架の言葉に拠り頼み、堅く立ちましょう。
Ⅱ.神の知恵なるキリスト
- 律法を遵守しようとする宗教的熱心によって救いを得ようとしていたユダヤ人たち、哲学によって神を追求しようとしたギリシャ人にとっては、主イエスの十字架は躓きになったのです(Ⅰコリント1:22-23)。この世の知恵によっては、神を知ることができません。主は、かえってこの世の知恵を愚かなものにされました。神の御心は、愚かと見える十字架の御言葉とその宣教を通して、信じる者を救うことだからです(Ⅰコリント1:19-21)。
- 神の知恵が凝縮されて現されているのが、主イエスの十字架です。主は、罪人が主イエスの十字架の贖いを信じることで義と認められるという、信仰による救いの道を備えてくださいました(ローマ4:5)。十字架は、全ての人の救いのために備えられた主の一方的な恵みです。
- 人を救う神の知恵なる主イエスに信頼し、深く主を知りましょう。もし自分には主を知る知恵がないと考えるなら、主に知恵を求めましょう。主は約束通り、必ずあなたの求めに応え、主イエスを知ることができるようにしてくださることを信じて、主を待ち望んでまいりましょう(ヤコブ1:5-7)
Ⅲ.宣教の愚かさによる救い
- パウロは、十字架の言葉が世には愚かに見えることを十分に知っていました。しかし、彼は、十字架の言葉を生涯語り続けたのです。それは、神の言葉によらなければ、人は主イエスを知ることができないからです。主に遣わされて、御言葉を宣べ伝える者がいて、人々は神の言葉を聞くことができるのです。
- 主はいつの時代においても、人を召して神の言葉を宣べ伝え続けて来られました。これからも、主が再び来られるまで、教会は十字架にかかられた主イエス・キリストこそが救い主であると宣言し、宣べ伝え続けます。私たちは、唯一の救い主である主イエスを宣べ伝えて行きましょう。なぜならそれこそが信じる者に救いを得させる神の力だからです。そしてここに神の知恵があるのです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10:15)
結 び
十字架の言葉とは、主イエスご自身についての言葉です。主イエスの十字架と復活についての言葉です。この言葉は、この世の知恵では愚かに聞こえますが、私たち人間に救いをもたらす唯一の神の知恵であり、人を救う力なのです。この世の知恵、言葉は、どんなに耳に心地良く、もっともらしく思えても、そこに人を罪から救い、命を得させる力はありません。先に、主の一方的な恵みによって救いに与った私たちには、十字架にかかられたイエスこそ救いであると宣言し続ける使命が与えられています。十字架の言葉を宣べ伝えるとき、主は語る者を強めてくださることを覚えましょう。